私が42歳の時、義理の妹はくも膜下出血により、右は緊張性の麻痺、左は弛緩性の麻痺、歩くことも話すこともできない状態になりました。今では体位を変えることもできない状態です。急に会いたいと連絡があり、お見舞いに参りました。想像はできたのですが話しもできず、パネルをさして筆談でした。中々、意味が理解できなくて何を言っているのか分かりませんでした。同室の方々は寝たきり自ら何もできない人たちでした。このような状態でも命を運ばなければいけないのか。
「夫と筆談中」
人はこの世を生きるには、何を思い、何を目的に生きるのか。
私の師はこの世に生まれた意味とは、真の自己、あるいは「神」という真理を悟るためです。
神は雲の上にいるものではない。私たち万物すべてに在るのだ。私たち自身が「神」なのです。
天国や地獄は心の産物にほかならない。
「静まりて、我神なるを知れ」
妹のように病にふせったとしても、我を鎮め「神」を感じることです。
しかし、それは難しいのかもしれません。それでも、その様にあって欲しいと願うばかりでした。