The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

日常

2013年03月05日 | Weblog

 

2004年、イラクの武装勢力とアメリカ軍との激戦地ファルージャにおける環境破壊は凄まじく、高濃度のダイオキシンと放射性物質が検出されたそうです。ファルージャに住んでいる子供達のなかに、多くの先天性障害児が生まれており、その数は増加していると述べています。親や医療関係者は、アメリカ軍が使用した武器が障害児誕生の原因であると批難しているそうです。

http://onodekita.sblo.jp/article/60164346.html

 

世界の悪に対して、 我々が、それに全力で反対するよう、聖書と主イエスに命じられている。 (ロナルド・レーガン、米国大統領)

 

最近知った軍隊の中の宗教教育を思い出しました。

核ミサイルを担当する将校向けにキリスト教の倫理教育、ニックネーム「ジーザス・ラブズ・ニュークス(イエス・キリストは核兵器を愛する)」では、発射ボタンを押すことへの戸惑いをぬぐい去るためで、「秩序維持を目的とした敵への攻撃は正当化される」という聖職者による教育が施されていたそうです。(11年廃止)

勝手に自分は「善」で、敵国は「悪」と決めつけ、神の名のもとに攻撃。しかも大量破壊兵器は発見されず、劣化ウラン弾などのせいで無実の子供たちが苦しんでいるって。。。
言いがかりで攻撃して、罪のない人々を後遺症の残る兵器で殺せるのも相当な悪だと思いますけどね。本人的には「神の戦士」であり、限りなく善良だと思ってるんでしょうが。。。

 

こんな感じで、広島・長崎への原爆投下(カトリック司祭が同乗。命じたのはプロテスタント)、ベトナムへの枯葉剤散布とかもしていたのかもしれませんね。

 

「神の正義(秩序)」のための殲滅は正当、という考え方があるので、聖書(特にヨシュア記とか。キリスト教の聖典である聖書の神自身が殺人や戦争や略奪を命令する箇所がいっぱいあります)を使って兵士を丸め込むのは簡単そうです。宇宙の創造主である神が自ら、気に入らない街をまるっと滅ぼしているから、それに協力するのは、完全に義しい事。その街に当然いるはずの赤ちゃんや、無垢な子供すら殺すのも、人知の及ばない神の深遠な考えのあっての事、正しい殺人。神の御業に疑問や異議を持つ者には、地獄が待っているでしょうし、仲間から阻害されるという罰も待っていそう(米軍ではそういう雰囲気が問題になった。)

「正しい殺人」(宗教殺人)というのが存在してるというのは、ちょっと残念だし、恐ろしいです。

 

世間の道徳の上を行く、「神の殺人命令は全き善」という信仰心を、政治に利用しているだけとも思えますが、やっぱり利用されやすい部分があるのだろうな~、と思います。
もともとヤハウェ(エホバ)神は戦争神という機能を持った地方神で、「神は愛」とリニューアルしても、完全にその機能(正義の名のもとに殺人)が薄まったわけではないんですよね。何が正義か、時の聖職者や政治家がいくらでも自分の主義主張を(神の)正義にすり替えられるから、便利な機能といえば機能です。

 

 


日常

2013年03月03日 | Weblog

 「フランス<心霊科学>考」(稲垣直樹)が届いたのでパラ読み。

かなりの部分がヴィクトル・ユゴーにさかれてました。しかし、スピリチュアルっぽくて、オカルトとか神秘っぽいものが苦手なのでかなり斜め読みしました。

19世紀になると、キリスト教の衰退とともに、重圧を除かれた神秘主義が湧いていたらしいです。グノーシス、ユダヤ神秘主義カバラ、キリスト教以前のドルイド教などの見直し、など。特にユゴーは「テーブルターニング」にこっていました。この「テーブルターニング」は日本に伝わり「こっくりさん」になっています。

 

ユゴーはソクラテス、プラトン、モーセ、イエス・キリスト、シェークスピア、マホメット、ルターなどそうそうたるメンバーを降霊させ、思考しつつ、彼方の世界、宇宙の成り立ち、森羅万象について想像力の翼を羽ばたかせ、独自の宗教思想を生み出したようです。

ユゴーの両親は革命時代の人で反キリスト教的だったので、息子に洗礼を受けさせませんでした。しかも彼自身も洗礼を受けることは生涯なく、ユゴーをカトリックとして死なせようとするカトリック聖職者の努力も虚しく、断固として受洗せず、葬儀も非宗教を指示し、死んでいます。

あと輪廻転生も信じていたようです。(輪廻転生自体はインド、エジプト、ギリシャにあった考え方です)

面白いのがユダヤ教のカバラにも「輪廻転生」あって、「ギルグール」と言うそうです。
うーん、古代においては死後シェオールに行ってご先祖様と一緒に過ごすという死後観だったのに、例え極わずかなセクトでも輪廻転生という思想を持つに至るとは!でもキリスト時代のちょっと前あたりから「死者の復活」とか「天国と地獄」など異教の思想の影響は受けているようです。(パリサイ派)

ユダヤ教というと硬直した宗教という気がしますが結構柔軟なんですね。キリスト時代でも、サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派と色々考え方の違いすぎるユダヤ教宗派が林立していますが、唯一の神を信仰している、という点で一致していれば、殺し合うと言うほど排斥し合ってないのです。イエス・キリストの直弟子、肉親たちの宗教活動もしばらくは許されていましたし。

 

話を戻すと、ユゴーはテーブルターニングから「輪廻転生」思想を受け、「神に背いた悪人は地獄に、善人は天国に」という考えではなく、「輪廻を繰り返す生き物、鉱物すらいつかは救済される」という思想を持ったそうです。
彼の詩を紹介

 

希望を持て!希望を持て!希望を持て、あわれな者たちよ!
永久に続く悲しみはなく、治らない病はない。
久遠の地獄もありはしない!

(中略)

諸々の善行は、天井の扉を開ける
見えない肘金なのだ

続いて、輪廻の渦中にある「ありとあらゆる動物の唸り声のひとつに溶け合う祈りの声」と絶対者に「永遠の愛の光」による全世界救済が描かれ、キリストとサタンの一体化、神とサタン和解で、業報輪廻の連鎖から救済される、というものらしいです。

 

要するに「苦しみの祈り」と「絶対者の慈愛」という構図らしいです。「キリストとサタンの一体化」というのは謎ですね。もともとサタンは天井に住んでいた天使のルシファーだし(多分、うろ覚えです)、堕天使が元に戻る、みたいなイメージでしょうか?
(そういえば、俺は「堕ちた星」(サタン)とかジャベールが歌っていました。゜(゜´Д`゜)゜)

 

「レミゼ」のグノーシス読み、というのも載っていますが、読んだ感じ、「司教とジャン・バルジャン」「コゼットとエポニーヌ」などキャラクターがシンメトリーになっており、作中で価値の転換が起こる、とか書いてあります。「ジャン・バルジャン」も「バル」をはさんでシンメトリーになっていたり、途中鏡字が出てきたりという事が紹介されています。

 

子供がはまったので今日も「レ・ミゼラブル」を見に行く予定です。アンジョルラスはかっこいいですが、いつも酒瓶をもってる黒髪のグランデールの最後の姿が滅茶苦茶萌えます。彼はアンジョを崇拝しまくって、最後に一緒に殉じるんですからね。

ジャベールの、投身自殺、しかもベキッて音が゜(゜´Д`゜)゜!!!

確実に地獄落ちっぽいのが悲しいです。上記のユゴーの考え方なら、そのうち救済され天国に行くのでしょう。

 

 

 

 

 


日常

2013年03月02日 | Weblog

 

 

 

19世紀というのは神秘主義や聖杯伝説の流行った時期のようです。グノーシス主義的な世界観をヴィクトル・ユゴーは持っていたようですね。

今日も子供がアンジョルラスファンになり、「アンジョ詣でに行きたい」と言うので、連れて行くついでに自分も「レミゼ」を見にいきました(ジャベールも見たいし✩)。気をつけてみてみたつもりですが、特にグノーシス的な感じはしなかったです。

でも唯一感じたのは主人公の名前の「ジャン・バルジャン」。一人の人間の名前の中に「ジャン」つまり「ヨハネ」という名前が二つも入ってるのです。⇒ Jean Valjean

しかも仮の名前が「マドレーヌ」つまり「マグダラ」。

 

「アルビジョワ派」(マグダラのマリア派)、グノーシス的キリスト教カタリ派は洗礼者ヨハネとマグダラのマリアを重要視しました。その教義はグノーシス的で、最も重要視されたのは「ヨハネの福音書」です。二つの「ヨハネ」は「洗礼者ヨハネ」「福音書家ヨハネ」、「マドレーヌ」は「マグダラのマリア」なのかな、なんて思いました。

 

あとは壁に大きく書かれた目も意味深といえば意味深だったかな~。フリーメーソンぽくて。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

南フランスの「アルビジョア派」はマグダラのマリア派とも結びついていました。
アルビジョア派はマグダラのマリアがイエスの秘儀的なパートナーで、イエスの真の教えはマグダラヨハネ(洗礼者でなく福音書を書いたヨハネ)に伝えられたと考え、カトリック教会の権威を否定しました。
ラングドック=ルション地方ではカタリ派が公認の宗教となっていました。

1209年にカトリック教会はカタリ派を絶滅すべく、十字軍(アルビジョア十字軍と呼ばれました)を結成し、10万人規模の虐殺が行われました。
アルビジョア十字軍は洗礼者ヨハネの聖日6/24に召集され、マグダラのマリアの聖日7/22には大虐殺が行われました。
こうして20年をかけて戦いが続き、1243年にはカタリ派最後の牙城が攻略されました。

  

カタリ派を語る上でテンプル騎士団とプリウレ・ド・シオン団(シオン修道会)も重要。 

テンプル騎士団は1118年にユーグ・ド・パイヤンによって、巡礼者と公道の安全確保を目的に設立され、その中心で運営していたのがシオン修道会だとされる。シオン修道会は1099年にエルサレムのシオン山のノートル・ダム修道院にて組織されたとされる。テンプル騎士団にはカタリ派の貴族も多数属しており、4代目総長ベルトラン・ド・ブランシュフォールはカタリ派であった。
カトリック教会とは対立し、ついには迫害され1314年総長ジャック・ド・モレーの火刑により歴史の表舞台から消えるます。

 

しかし、シオン修道会の歴史が閉じることはなかった。ニコラ・フラメルやレオナル・ド・ダヴィンチ、アイザック・ニュートン、ヴィクトル・ユゴー、ジャン・コクトーらが総長を歴任した、らしいです。

「ダ・ヴィンチ・コード」でシオン修道会総長がレオナルド・ダ・ヴィンチとか言っていましたが、ヴィクトル・ユゴーもそうだったのかもしれませんね。

 

ま、これはちょっとググった知識なのでトンデモかもしれません。でもユゴーがグノーシス的というのか独特な宗教観を持っていたのは事実のようです。
それに気になって「ユゴー」「禁書」でググったのですが、本当に「レ・ミゼラブル」ってカトリックの禁書になってました(@_@;)

 

 


日常

2013年03月01日 | Weblog

こんな記事を発見。

 

 

ニューヨーク=黒沢潤】米軍が宗教問題に揺れている。陸軍士官学校「ウエストポイント」で最近、キリスト教重視の校風に反発する無宗教の学生が学校側と対立し、今春の卒業を待たずに退学した。また、陸・空軍の実戦部隊もここ数年、キリスト教との“近すぎる距離”が批判されている。米憲法は国家と教会の分離を明確に規定しており、軍は対応に苦慮している。

 「学生の多くは異論を唱えようとしない。堂々と意見を述べれば、卒業後の陸軍内でのキャリアに支障となるからだ」。5月の卒業式を間近に控え、2カ月前にウエストポイントを退学したブレーク・ペイジ氏(22)はこう語った。

 無宗教のペイジ氏によれば、学生はキャンパスの教会での礼拝を事実上強制され、礼拝を拒んだ場合、トイレの清掃や机ふき、芝刈りなどを命じられる。ペイジ氏は同校幹部から、「神のいない『穴』の開いた心を埋められなければ、いい士官にはなれない」とも言われたという。

 米軍は士官教育に社会道徳を説くキリスト教を重視し、ウエストポイントでも宗教行事に積極的に出席したり、教会の合唱団に参加したりすれば、休暇を優先的に取れるといった特権が与えられる。キリスト教と距離を置くペイジ氏の立場を理解する教師も一部いたが、同氏は「無宗教の学生が軽んじられ、校内で白眼視されることに耐えられなかった」と振り返る。

 米空軍士官学校(西部コロラド州コロラドスプリングス)でも2005年、聖書の教えに忠実な福音派の学生を優遇したり、非キリスト教徒の学生に改宗を勧めたりしたことが発覚し、批判が起きた。

 

10年に実施した学生対象の調査によれば、同校は05年以降、宗教的に寛容な雰囲気にはなった。ただ、宗教行事に参加すべきとの圧力にさらされていると感じる学生は少なくなく、「無宗教の学生への寛容さに欠ける」と答えた非キリスト教徒の学生は08年比20%増の約半数に達した。

 アフガニスタンに展開する陸軍内でも10年、聖書の一節を刻んだ銃の照準器が使われていたことが問題となり、「米軍が(イスラム教徒と敵対したキリスト教徒の)『十字軍』のようにみられかねない」との懸念が軍内外から噴出した。

 国防総省の幹部は「米通貨のコインにも『われわれは神を信ずる』との一節がある」と強調し、事態の沈静化に努めたが、部隊幹部は、イスラム教徒が大半のアフガン人の感情に配慮して、同照準器の使用は望ましくないと提言した。

 米紙クリスチャン・サイエンス・モニターによれば、空軍のミサイル部隊でも長らく、

核ミサイルを担当する将校向けにキリスト教の倫理教育を施してきた。発射ボタンを押すことへの戸惑いをぬぐい去るためで、「秩序維持を目的とした敵への攻撃は正当化される」という聖職者の教えなどが紹介されたという。

 空軍兵の間で冗談交じりに、「ジーザス・ラブズ・ニュークス(イエス・キリストは核兵器を愛する)」との名称で呼ばれたこの倫理教育には疑義が示され、11年に中止となった。

 ペイジ氏は、キリスト教と米軍との密接な結び付きについて「神は軍の文化の一部になっている」と指摘。今後は政教分離を推し進めるため、ウエストポイントでの自身の体験や軍と宗教の関わりをまとめた書籍を執筆する予定だ。

 

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130224/amr13022420580006-n1.htm

 

以前、広島と長崎の原爆投下の任務を確実に遂行させるため戦闘機にカトリック司祭が搭乗していたという記事を書きました。「昔のことだから、今はもうそんな事はしていないだろう」とも考えていましたが、最近まで「秩序維持を目的とした敵への攻撃は正当化される」という教育が続いていたのですね。攻撃の先に罪のない子供や一般人もいると思うのですが、目的のためには犠牲になるのですね。
(神のお墨付きがなかったら、繊細な人は狂うかもしれませんしね。殺人に対する嫌悪や攻撃に対する自分の内心の批判をかき消し、マインドコントロールされる事で狂気や精神病を回避できるかもしれないです。ベトナム戦争後も精神を病む米兵が多かったと言いますし)

イラク爆撃の頃、週刊誌で色々生々しい写真を見ました。実際はそれをはるかに凌駕する凄惨さで、現地に行くと死臭やら筆舌に付くしがたく、失神しかけるレベルだとかも聞きました。これも聖絶の一種だったのかもしれません。

個人的には宗教的熱狂を政治や戦争に利用するのはあまり良いこととも思えません。

 

 

この 【十把一絡げ】戦法は、今読みかけの「オクシタニア」というアルビジョワ十字軍に関する本でも登場します。異端であるカタリ派をジェノサイトするために、同じ街に住んでいた普通のカトリック教徒も、裁判にもかけず有無を言わさず、まとめて殺しまくってます。こういう大雑把な攻撃方法というのは旧約聖書のソドムとモゴラ※のように「街ごと殲滅」あたりに倣っているのでしょうか?

※、ソドムとモごラは預言者ルート(ロト)に従わず、甚だしい性の乱れが最大の原因で神に滅ぼされた。残ったロトは、他に誰もいなくなってしまったので自分の娘と近親相姦して子供を作った。(ソドムとモゴラの罪って大抵男色って言われますが、近親相姦はいいのか?と、物凄く疑問です。神に罰されなかったところを見ると父と実の娘のセックスはOKなのでしょう。。。)

  

 

 

飲んだり食べたりセックスしたりする血の繋がった父娘三人。。。。正直言葉もないですなああ(実際にはロトが眠ってる時にHしたらしいですが)。。。。。それでも、こっちの方に「性の乱れ」を感じてしまうのは、正しい読み方ができていないってことかもしれません✩

 


 

 

そういえば今度おやめになる教皇はベネディクト16世は、反ユダヤ主義的でナチスによるホロコーストを否定した「聖ピウス10世・同胞団」のリチャード・ウィリアムソン司教らの破門撤回したそうですね。(他、アイルランド、ドイツ、アメリカ等におけるカトリック聖職者による児童性的虐待事件。アイルランドでは数百人の聖職者が2500人の少年少女に性的虐待を加え、組織的な隠ぺいもあったとか。。。)

 http://www.newsdigest.de/newsde/column/dokudan/1798-752.html

 

 

このリチャード・ウィリアムソン司教は89年の4月にカナダで、「ホロコーストはユダヤ人の作り話。アウシュビッツではユダヤ人は1人もガスで殺されていない。すべては嘘だ」と発言。また今年1月末にはスウエーデンのテレビ局に対するインタビューの中で、「アウシュビッツにはガス室はなかった。ナチスの強制収容所で殺されたユダヤ人の数は20万~30万人」と語っている。

ドイツでは、ナチスの犯罪を矮小化する発言を行うことは「国民扇動罪」に当たるが、ベネディクト16世は、極右的な思想傾向を持つ人物をカトリック教会に迎え入れたということらしい。

 

イスラエル人たちは「第2次世界大戦中にローマ教皇庁はナチスのユダヤ人迫害を強く批判しなかった」といっているようですね。ググってみました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012785170

 

1933年、ヒトラーが政権を取ったとき、意外にも国際的に高い評価が下されていた。
 
「ドイツ政府元首ヒトラーが共産主義ならびに虚無主義とあくまで戦う決意の人であることを認め、喜びにたえない」
(ローマ教皇ピオ11世)
バチカンとヒトラーが結びついた要因は複数ある。

まず1つは、ともにキリスト教世界が抱き続けた反ユダヤ主義を共有していたという点が挙げられる。ヒトラーが唱えた反ユダヤ主義というものは、ナチスの専売特許ではないし、突然ヨーロッパに吹き荒れたものでもない。反ユダヤ主義はキリスト教界が作り出した2000年来の西欧文明のシンボルであった。

一般にキリスト教会はユダヤ人に対し、「キリストを裏切り、永遠に国家を持てずにさまようように罰せられた民族の運命に、宗教的理由からいっても同情するのは筋違いだ」とし、バチカンもプロテスタントも反ユダヤ的であった。

キリスト教という宗教的な厚い土壌があったからこそ、ヒトラーの反ユダヤ主義は、枯れ野に火を放ったように爆発的に広がり、根づいていったのである。

 

しかし、カトリック教会(バチカン)は最初からナチスを支持していたわけではなかった。当時、両者はお互い一定の距離を保ちながら牽制しあっていたのも事実である。

1918年から1932年までの間、ヒトラーが政権を取るまで、カトリック政党の「ドイツ中央党」は、全ての内閣で重きをなしていた。当時のドイツのカトリック教徒は人口の約3分の1を占めており、ドイツの司教たちは、信者たちに「ドイツ中央党」を選ぶようにすすめ、ドイツ・カトリック司教団の司教たちは党の役職についていた。

まだこの頃は、弱小であった「ナチ党」ではあるが、「ドイツ中央党」のライバルにあたるので、この時のドイツ・カトリック司教団は、ナチ党員にはカトリック教会の秘蹟を授けてはならないと決定するなど、反ナチス的であったのだ。


しかし、1931年にローマで出された回勅『クワドラジェシモ・アンノ』で説かれた職能団体の有機体国家思想がドイツに大きな影響を与えていた。このナチスばりの国家論に感銘を受けたのはカトリック教徒で、1932年6月に首相になったフランツ・フォン・パーペンだった。

これを機にカトリックとナチズムは接近し始め、1933年1月にヒトラーが首相になった背景には、このパーペンの助けがあったとされる。そして2ヶ月後の3月に、バチカンの教皇ピオ11世は枢機卿会議で、ヒトラー政権を認める見解を表明。同じ日に、ドイツのカトック政党「ドイツ中央党」は、悪名高い「授権法法案」に賛成し、ワイマール憲法は無力化。そして数日後、ドイツ・カトリック司教団は、それまでナチスのメンバーになることをカトリック教徒に禁じていた指示を撤回したのであった。
 

こうして、カトリック教徒という最大の支持層を獲得したナチスは、労働組合禁止(5月)、社会民主党の活動禁止(6月)、ナチスを除く全政党の解散(6月)、新政党禁止令(7月)と驚くべきスピードで独裁を完成させる。

更にこの年の7月20日、ナチスとバチカンの間に歴史的な「政教条約(コンコルダート)」が結ばれた。これにより、ナチスは国内のカトリック教徒を弾圧しないことを保証し、カトリック教会側は、聖職者と宗教を政治と分離することに同意。そして
バチカンは、ナチス政権をドイツのために祝福するとともに、聖職者たちにナチス政権に忠誠を誓うことを命じたのである。

ヒトラーにとってバチカンとの間で「政教条約」を結ぶことは、国際的にもナチスの評価を高める政治的な大成功となったのである。

 

 

プロテスタントと反ユダヤ主義というので思い出したのがこれ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%AE%E5%98%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%

 

 

色々残念な事が書いてありますが、「ユダヤ人は神の子ではない」とか言っちゃってますね。しかしキリスト教の「ユダヤ人はキリストを殺したために、神からのろわれる存在となった」、「神はユダヤ人を捨てられ、代わりに教会をその選びの中に入れられた」という神学(置換神学)からすると、そうなんでしょう。
勝手に自分たちの聖典(旧約聖書)をハイジャックされた挙句、この2000年の差別。ユダヤ人って本当に気の毒です。


しかも、キリスト殺しの責任も、本来なら刑を下したローマ側にもあるはずなのに、ユダヤ人が熱狂的に死を望んだ、というふうにすり替えられ、捏造されていき、最終的にはユダヤ人という民族全体が呪いの対象と拡大されていったのは、残念なことです。(共観福音書では『一部の律法主義者』だけが避難の対象なのに、もっとも成立年代が新しいヨハネ福音書になると、イエスの敵対者がしばしば『ユダヤ人』そのものという描写に変化し、イエスは彼を信じないユダヤ人を悪の化身であると断言し、あなた方は自分の父、すなわち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望のままに行おうとしている。さらに、ユダヤ人は真の信仰を拒否することによって、神との契約を破ったのだと語っている)

 
「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ」と、手を洗うローマ人総督ピラト。キリスト処刑にローマ人は関わっていない事を表現している。つまりはすべてユダヤ人の責任だと。

 

  • 総督(ローマ人ピラト)は彼ら(ユダヤ人)にむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼ら(ユダヤ人)は「バラバの方を」と言った。
  • ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
  • しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
  • ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
  • すると、民衆全体(ユダヤ人)が答えて言った、「その血の責任は、われわれ(ユダヤ人)とわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
  • そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

マタイによる福音書27章15~26節

 

福音書を見る限り、ピラトはイエスに同情的で、何とか処刑を回避したい気持があったような描写。しかし、これは史実よりも初期教会や福音書作者の親ローマ・反ユダヤ感情の反映と考える学者もいるようですね。ローマ帝国内での福音活動を成功させたければローマ人の事を悪人にできません。

逆に当時のユダヤ人達はキリスト教徒たちを盛大に呪っていたんでしょう。

 

パウロも「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。」(テサロニケ、二章15節)と言っています。

 

 

こういう風に勝利した教団の立場や教義を反映した文章が聖典化し、絶対視され、力を持つと悲劇を生みますね。

ちなみに、マタイとヨハネの福音書で、あたかもイエスが発したというように書かれている言葉は、マタイ教団、ヨハネ教団の作り話で、イエスの言葉ではないと現代の聖書学者は否定しています。(捏造で無数のユダヤ人が殺されたというのは個人的には許しがたいです)

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

なんだかまとまらなくなりましたが、過去の亡霊かと思っていたものが、完全に葬り去られたものでないというのはちょっとビックリですね。

 

 

 

 

 

 

 


日常

2013年02月27日 | Weblog

 

やっと映画「レ・ミゼラブル」を見てきました。ジャベールに惚れまくりです。あとエポニーヌはよいですね。゜+.(*`・∀・´*)゜+.゜

 

確かに「ムッシュ・マドレーヌ」って呼ばれてました。工場の名前も「マドレーヌ工房」みたいな名前がガラス戸に書いてありました。改心したマグダラのマリアからとったのでしょう。

 

作品には、キリスト教の強い影響が見られますが、作者のユーゴー自身が熱心なクリスチャンかといえば、そうでもなかったようです。
19世紀のヨーロッパ社会においてキリスト教の影響力が弱まっていくのですが、それとともに広まりつつあったスピリチュアリズム(心霊主義)にユーゴーは多大な関心を抱いていたらしいのです。彼は1853年秋から1855年秋にかけて、まるまる2年間も降霊術に明け暮れ、死者との交信を試みていたそうです。

よく拝見させていただいているブログ様の記事によれば、「レ・ミゼラブル」はカトリック教会による禁書目録に入っていたそうです。(「ノートルダムの鐘」も)。お薦め作品でなく「禁書」です。どこいらへんがカトリック信仰の上でダメだったのか(異端チックだったのか)、原作を読んでいないのでよく分かりません。

 

異端ちっくなマリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)派のキリスト教についての本(「ダ・ヴィンチ・コード」のネタ本らしい)の中にも名前が出てきます。トンデモ本といえばそうなんですが、「オペラ座の怪人」のガストン・ルルーやジュール・ヴェルヌとかも出てくるので、オペラ座ファンとしては大切な本なのです。

 

なんとなく19世紀のフランス文壇というのは、伝統的なキリスト教から若干逸脱した神秘主義みたいなものが流行っていたのかな~、とぼんやり思っています。人文書院からこんな本が出ていたのでポチってみました。


日常

2013年02月20日 | Weblog

 

やっと子供の受験も終わりに近づきました。とりあえず希望校には受かったので、これから色々忙しくなりそうです。

別館もいい加減更新しなくては、とぼちぼち作業しています。

 

 


避雷針

2013年02月12日 | Weblog

 

11日、バチカンのサンピエトロ大聖堂のドーム屋根に落ちた雷。この日、ローマ法王ベネディクト16世は、高齢を理由に28日をもって退位すると表明した。法王の任期は原則として終身制で、途中退任は異例。

避雷針をつけてなかったのでしょうか?

 

夜のヴァチカンといえばローマ、イルミネーションツアーに参加して見に行った思い出があります。綺麗だったなあ。

 


春の雪

2013年02月11日 | Weblog

 

子供が帰ってきました。
「宝塚で三島由紀夫の『春の雪』があって、すごくいいらしいよ」を連発されたので、ご褒美にDVDを注文しました。

「ニジンスキー」以来、こっそり宝塚ファン(といっても「ニジンスキー」しか見てないのですが)らしいです。

「ニジンスキー」もお友達のところを渡り歩いているのですが、さすがに卒業式には戻ってくると思います。そうしたらまた見てみたいです。

 

 

 


日常

2013年02月08日 | Weblog

男性性が過剰であったヤハウェ神をもとにしたユダヤ―キリスト教には、実際にはヤハウェの妻が登場することはできなかった。それを代償するのが、「イエスの母である人間マリア」であるが、マリアは「聖母マリア」でもある。ユングによれば、1950年にローマ法王が出した「マリア被昇天」の教義によって、父なる神の妻がついに天上にその位置を占めたという。

http://d.hatena.ne.jp/charis/20060823

 

ユングの「ヨブへの答え」は買って読んでいないのですが、読んでみたいです。

1950年に正式に「聖母被昇天」が認められましたが、実際は黙認状態で、絵画にも「被昇天の聖母」みたいなモチーフはいっぱいです。今日も上野で見てきました(エル・グレコ展行ってきました✩)

 

「タンホイザー」も最後の男性的というか勇壮な大合唱の際、舞台の中央辺りに聖母マリアの像が置いてあったら、二重の救済、聖婚、和合、みたいなイメージが聴覚と視覚から感じられたかもしれません。

 



レヴューを読むとめちゃくちゃ面白うそうです✩

 

 

 


危なかったヴェーヌス

2013年02月07日 | Weblog

ボッティチェリ「ヴィーナス(ヴェーヌス)の誕生」

 

サヴォナローラ(1452年生まれ)の登場により、かつてルネッサンスを花開かせたフィレンツェでは華美な生活を厳しく弾劾、装飾品や美術品をはじめ美しい服、本などがシニョーリア広場にて焼却する「虚栄の焼却」が行われました。

これによりボッティチェリの作品などネッサンス芸術のかなりのものが失われたそうです。この人類の至宝とも言うべき名画も、断罪され炎に焼けていたところだったのです。((((;゜Д゜))))

 


サヴォナローラ

 

 


日常

2013年02月07日 | Weblog

                      

                       悔いを知れるなべての優しき者よ。
             感謝しつつ己が性を変え、
             清らけき福を得べく、
             われらを救わせ給うおん方を仰ぎ見よ。
             心すぐなる者はみな、
             おん身に仕えまつるべし。
             処女よ、神母よ、天の女王よ、
             女神よ、永く御恵深くおわしませ。

神秘の合唱

             すべての移ろい行くものは、
             永遠なるものの比喩にすぎず。
             かつて満たされざりしもの、
             今ここに満たさる。
             名状すべからざるもの、
             ここに遂げられたり。
             永遠にして女性的なるもの、
            われらを引きて昇らしむ。

 

 

 「タンホイザー」について考え中に思い出しました。ゲーテの「ファウスト」。
ユングの言うところの「アニマ」みたいなものでしょうか?よくわかりませんが関係があるかな?

「第三段階は霊的なアニマ聖母マリアによって典型的に示されている、聖なる愛で、母親でありながら、 処女であり、乙女の清らかさを共存せしめる」ものだそうです。

 

この歌詞はマーラーの交響曲第八番でも使われています。 

そういえばタイムリーにも世界屈指の聖母の絵が東京入りです。とりあえずエル・グレコから見に行くつもりです。

 


ラファエロ・サンツィオ《大公の聖母》

エル・グレコ『無原罪のお宿り』

無原罪のお宿り」とは、聖母マリアが母アンナの胎内に原罪を免れて宿った、とするカトリック特有の教義。とりわけスペインでは今でも篤い信仰を集める。ユリやバラはマリアの純潔の象徴。原罪を免れているマリアに老いや死はなく、今も肉体を持ったまま天にいるそうです。

 

 


聖なる口づけ

2013年02月06日 | Weblog

作曲者自身の言葉によれば最後の合唱は「穢れたものの呪いから救済されたヴェーヌスベルク自体の歓呼の声」であり、「二分されていた要素は聖なる和合を果たし口づけを交わしながら、曲は感動的に終わる」ということらしいです。

 

今回の演出では、そんな感じもしなかったのですが。。。

ワーグナーの言葉はちょっとばかりグノーシスを思い出させました。「二つのものの和合」「聖なる口づけ」とか。

「フィリポの福音書」や「トマスの福音書」でも「口づけ」という言葉が象徴的な意味を持って登場します。

一説によれば、そこには性的な意味はなく、くちづけをすることにより二人は息を、霊的な息吹を交換する事なのだそうです。

「フィリポの福音書」に出てくる「彼は彼女を他のどの弟子よりも愛していた。そして彼女の口にしばしば接吻した」というのも、普通の意味の恋人同士の口づけという意味を超えたものの象徴的らしいです。

「トマスの福音書」でも奥義は口移しで、みたいな事が書かれていました。これだと覚知者が男なら男同士のキスになちゃいますね。

 

 

『タンホイザー』覚書、続き

 

「恋人エリザーベトが聖母マリヤを、ヴェヌスはマグダラのマリヤ」という解釈もあるようですね。「エリーザベトとヴェーヌスは表裏一体」というアイディアがあったのなら「マグダラの・マリア」を表しているのかも、と思うと楽しいです。
今回の舞台では、解説を読むとあるはずの「聖母マリアの祠」というのがなく、巨大な十字架が立っています(ただの十字架でイエス・キリストはついていません。どうも歌詞と舞台装置がチグハグだと思ったら・・・

 

「聖母の祠」がプロテスタントの十字架に変わっていたらしい工エエェェ(´д`)ェェエエ工)。

「エリザベートの棺の登場」というのも本来はあったらしい。。。工エエェェ(´д`)ェェエエ工

タンホイザーの骸が一人ぼっちで転がってる、というのもなかった可能性が工エエェェ(´д`)ェェエエ工

 

本来は挫折したタンホイザーが女性、女神、聖母といったものに救済される物語だったようですね。人によっては悲劇ととらえてる場合もあるようです。

もしかしたらエリーザベトは自らの中の欲望を改悛し、一種の聖人になり(マグダラのマリアのイメージ)、聖母にタンホイザーの贖罪を祈る。聖母の恩寵が教皇の死んだ杖から芽が吹き出すことによって表される。教皇は「ヴェーヌスベルクでの邪悪な快楽は永劫の罪であり、手にする枯れた杖に緑の芽がふかぬ限り、お前を許すことはできない」と言ってたらしいので、嫌が上にも救済を認めざるを得なくなります。

 


第一幕で巡礼者に牧童のような妖精(ヴェーヌスの手下ですよね)が「僕の憐れな魂も救われるように頼んでください」と言って見送る場面があります。

教皇が異教の妖精など救うはずもなく、巡礼が妖精の言葉を聞いていたとも思われません(記憶曖昧)。第一、ヴェーヌスブルグを卑しいものと呪ったのはキリスト教的価値観です。「穢れたものの呪いから救済されたヴェーヌスベルク自体の歓呼の声」って、そういう価値観からも聖母が救った、ということなのでしょうか?

 

ヴェーヌスはイコール「ヴィーナス」であり、ボッティチェッリが美しく描いた女神と同一人物。金星(ヴィーナス=愛と美の守護神)イメージもあります。しかしヴォルフラムが大切な人エリーザベトのことを歌う「夕星の歌」というのもあってややこしいです。(夕星=宵の明星=金星)微妙にかぶってるんですよね~(。-_-。)う~ん

杖からふくアーモンドの芽も、微妙に大地の豊穣さみたいなものも感じますし。アーモンドだって女性的なイメージですし。う~ん(。-_-。)

 

異教的な世界も聖母により、救済され大団円をむかえる、とも言えるのでしょうか?聖母自体グレートマザーみたいなもののシンボルとも考えられますかね?

 

ちなみにググったら聖人には「神と人間をとりなす力を持つとされた」そうです。
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/gsletters/pdf/20120604_01.pdf#search='%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%88%E3%81%AE%E8%81%96%E5%A4%89%E5%8C%96'

あんまり演出家の意見の入り込んでない、普通の「タンホイザー」を見る機会があったらいいな、と思います。