なぜなら私の誇りを空しくされるよりは、死んだ方がましだ。
(コリント書Ⅰ9-15/新改訳)
英語において、「BよりもAの方がよい」と書く場合、
「A is better than B.」と書く。
上記の聖句も、パウロの誇りと死が比べられているように思えるが、
原文には「A is than」としか書いていない。
すなわち、「私の誇りを空しくする」と「私が死ぬ」の文は、
別々の文なのであり、訳者が無理やりに意味を形作ろうとしたものである。
(まあ、紙が貴重だった時代で文章をすべて繋げて書くのが当たり前だから、
混乱し易いといえばし易い)
直訳すれば、下記のようになる。
なぜなら私にとって死ぬ方が・・・。私の誇りは誰も空しくすることはできない。
(コリント書Ⅰ9-15/私訳)
この箇所で問題になっているのは、キリスト者の良心の問題である。
そしてパウロの主張は、キリストの恵みを自覚したキリスト者は、
自分の良心を自分の主義主張のために用いるのではなく、
他人の良心のために用いよと言っている。
他人がキリストの恵みを知るために、キリスト者は自分の主義主張を放棄し、
(イエスの如く)弱い者のために生きよ、と言いたいのである。
であるから、キリスト者の生とは、具体的隣人のために、
権利を放棄する人生だとも言える。
であるからパウロも、福音宣教によって生活の糧を得ないのは、
キリストの恵みを知る者にとって、当然の権利放棄だということになる。
パウロは、福音宣教によって糧を得ないことは、
キリストの恵みに照らして当然のことだと考える。
だから「死ぬ方がましだ」と言いたかった。
しかし「糧を得ない」ということを断固主張し、かかる主義主張が絶対化することに、
ある種の躊躇を感じた。(絶対化されるに値するものはキリスト御一人のみ)
であるから、続く文章を書くのを止めて、
私の誇りであるキリストについて触れたのである。
パウロという人間は、その言葉使いからすれば、
随分と自我の強い人間に属するのだと考えている。
少なくとも、ヨハネ福音書記者やコロサイ・エペソ書著者と比べて。
かかる自我の強いタイプの人間が、他人に対する権利放棄をもって自己の誇りとし、
その自己の誇りをも、キリストの恵みに照らしてみて、
権利主張することを恥じているのである。
この「強烈な自我の強さ」とそれを打ち砕く「キリストの恵み」。
かかる対立を考えるとき、福音というものが如何なるものであるかがわかる。
「私が、私が」と自己主張する人間の性(さが)は、
ある時は「金が、金が」という人間的利欲をもって、
ある時は「愛が、愛が」という宗教的装いをもって、
ある時は「国が、国が」という政治的野望をもって、
他人を支配し、己が権威を打ち立てんとする行動に駆り立てる。
しかしキリストにある者にとって、かかる人間の性(さが)は、
キリストの行動に照らしてみて、克服されるべきものとして、
恥じるべきものとして、イエスを否定するものとして、
考えられているに過ぎない。
(ヨハネ福音書13章~17章「告別遺訓」)
キリスト者とは、「愛が、愛が」と言うキリスト教信者でも、
「国が、国が」と言う自己信頼的愛国者でも、
「金が、金が」と言うアメリカ的事業家でもない。
ましてや、「霊が、霊が」と言う他力的宗教者でもない。
キリスト者とは、イエスの戒めを守るために、
(ヨハネ福音書のイエスの言を聞け!)
「努力」を続ける者を言うのである。
パウロが福音の核心を語る際、
直説法(あなた方は既に恵みを受けている)と命令法(あなた方は人を愛せ)を
並列させる所以である。
(コリント書Ⅰ9-15/新改訳)
英語において、「BよりもAの方がよい」と書く場合、
「A is better than B.」と書く。
上記の聖句も、パウロの誇りと死が比べられているように思えるが、
原文には「A is than」としか書いていない。
すなわち、「私の誇りを空しくする」と「私が死ぬ」の文は、
別々の文なのであり、訳者が無理やりに意味を形作ろうとしたものである。
(まあ、紙が貴重だった時代で文章をすべて繋げて書くのが当たり前だから、
混乱し易いといえばし易い)
直訳すれば、下記のようになる。
なぜなら私にとって死ぬ方が・・・。私の誇りは誰も空しくすることはできない。
(コリント書Ⅰ9-15/私訳)
この箇所で問題になっているのは、キリスト者の良心の問題である。
そしてパウロの主張は、キリストの恵みを自覚したキリスト者は、
自分の良心を自分の主義主張のために用いるのではなく、
他人の良心のために用いよと言っている。
他人がキリストの恵みを知るために、キリスト者は自分の主義主張を放棄し、
(イエスの如く)弱い者のために生きよ、と言いたいのである。
であるから、キリスト者の生とは、具体的隣人のために、
権利を放棄する人生だとも言える。
であるからパウロも、福音宣教によって生活の糧を得ないのは、
キリストの恵みを知る者にとって、当然の権利放棄だということになる。
パウロは、福音宣教によって糧を得ないことは、
キリストの恵みに照らして当然のことだと考える。
だから「死ぬ方がましだ」と言いたかった。
しかし「糧を得ない」ということを断固主張し、かかる主義主張が絶対化することに、
ある種の躊躇を感じた。(絶対化されるに値するものはキリスト御一人のみ)
であるから、続く文章を書くのを止めて、
私の誇りであるキリストについて触れたのである。
パウロという人間は、その言葉使いからすれば、
随分と自我の強い人間に属するのだと考えている。
少なくとも、ヨハネ福音書記者やコロサイ・エペソ書著者と比べて。
かかる自我の強いタイプの人間が、他人に対する権利放棄をもって自己の誇りとし、
その自己の誇りをも、キリストの恵みに照らしてみて、
権利主張することを恥じているのである。
この「強烈な自我の強さ」とそれを打ち砕く「キリストの恵み」。
かかる対立を考えるとき、福音というものが如何なるものであるかがわかる。
「私が、私が」と自己主張する人間の性(さが)は、
ある時は「金が、金が」という人間的利欲をもって、
ある時は「愛が、愛が」という宗教的装いをもって、
ある時は「国が、国が」という政治的野望をもって、
他人を支配し、己が権威を打ち立てんとする行動に駆り立てる。
しかしキリストにある者にとって、かかる人間の性(さが)は、
キリストの行動に照らしてみて、克服されるべきものとして、
恥じるべきものとして、イエスを否定するものとして、
考えられているに過ぎない。
(ヨハネ福音書13章~17章「告別遺訓」)
キリスト者とは、「愛が、愛が」と言うキリスト教信者でも、
「国が、国が」と言う自己信頼的愛国者でも、
「金が、金が」と言うアメリカ的事業家でもない。
ましてや、「霊が、霊が」と言う他力的宗教者でもない。
キリスト者とは、イエスの戒めを守るために、
(ヨハネ福音書のイエスの言を聞け!)
「努力」を続ける者を言うのである。
パウロが福音の核心を語る際、
直説法(あなた方は既に恵みを受けている)と命令法(あなた方は人を愛せ)を
並列させる所以である。
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