キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

働け,だが己の限界を知れ!

2007-08-05 00:09:40 | 聖書読解
男は労働するように定められた動物である。(創世記3-17・18)

家族を養うために,毎日毎日,額に汗して働かねばならない。

また,主イエス・キリストは,生涯働き通した人間である。(ヨハネ伝5-17)

彼を崇拝する者は,是非とも一生懸命,働かねばならない。

上記のようなことを思いながら,私は毎日仕事に従事する。

月から日まで,自分で計画し,自分で想定し,自分の手足を動かして,働く。

それが信仰の必然的行動だと思うから,働く。

仕事に成功すれば「これこそ自分の功績だ」と悦に入り,

仕事に失敗すれば「これこそ自分に課せられた試練だ」と耐え,

何度も何度も心の浮き沈みを繰り返すうちに,

すべての事柄は自分で決定できることで,

自分で自分を義とすることができると錯覚する。



わたしはまた,彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らの間のしるしとし,
わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした。
それなのに,イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい,わたしのおきてに従って歩まず,
それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをないがしろにし,
わたしの安息日をひどく汚した。
だから,わたしは,荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ,
彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。(エゼキエル書20-12・13)



主は労働を禁じ給わなかった,しかし労働を崇拝することを禁じ給うた。

自分の計画・想定・努力を過度に信頼し,自分で自分を義とすることを禁じ給うた。

主は休日を定め給うた,身体を休めるためではない。

レジャーにうつつを抜かして,呆けるためではない。

人間の第一に為すべきことは,キリストにおいて現れた神の恩恵に,

心身ともに浴することである。

それを知らしめるために,神は人に,休むことを命じ給うたのだと思う。

月から土まで働いて,日曜日に呆けるためではなく,

日曜日に自分の行動を停止し,神の恩恵に目を向け,

月から土まで働くことを許されているのである。

月から始まり日に向かう一週間を過ごす者にとって,

この世の仕事はやらねばならぬ義務である。

しかし,日から始まって月に向かう一週間を過ごす者にとって,

この世の仕事は許された喜びの舞台である。


精力的に仕事をする秘訣は,成功哲学を学ぶことでも,

事務処理能力を身につけることでもない。

神の前で自分の働きを停止し,神の慈雨に心身を満たし,

内なる神の慈雨をして,やりたいことをやることである。

西田幾多郎の言う「動静一如的動」とは,このことであると思う。



安息日を覚えて,これを聖なる日とせよ。(出エジプト記20-8)



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