「私は神の御前に立つガブリエルです。
あなたに話をし,この喜びの訪れを伝えるように遣わされているのです」
(ルカ伝1-19)
聖書において,天使とは何なのだろうか?
「天使とは何か?」ということを考える際に,まずやってはいけないことは,
天使という語(αγγελοσ:アンゲロス)を調べて,
その辞書的意味によって,天使というものを定義することである。
これは日本語でも同様のことが言えるのだが,たいてい辞書というものは,
きわめて一般的な抽象的な意味を伝えるだけで,
その著者が考えていた語の意味を教えるものではない。
かかる抽象的な意味を採用するということは,
当たり障りのない解釈のすき間に自分の妄想を挿入することを意味し,
強いては,ある著作の著者の価値意識をはなから無視することになる。
結果的に,辞書にだけ頼って著述を読むということは,
自分の価値意識をその本に投影して,自己満足するという,
まったく馬鹿げた事態を引き起こすことになるのである。
(結構,そんな原典読解がネット上に多いのは,非常に悲しむべきことである)
私がこれから考えたいのは,ルカ福音書における天使という存在であるから,
ルカ福音書全体の内容に照らして,天使というものを考えねばならない。
人があまり注目しないことであるが,ルカ伝という著作は,
他の福音書(マタイ・マルコ・ヨハネ)に比べて,きわめて異質な書き方がされている。
古代ギリシャの悲劇で用いられている形式が,この福音書では用いられているのである。
(アリストテレス「詩学」)
物語全体の最初と真ん中と最後を強調すること,
(事実,最初と真ん中と最後に,イエスの祈り及び聖霊の降下が語られている)
「逆転と認知」の舞台設定をすること,
(人々の無知が,復活したイエスとの出会いによって知へと逆転する)
重要な場面では前奏曲としてコロスを導入すること。
(イエスの誕生と死において,大勢の賛美の声があがっている)
福音書記者ルカが悲劇や叙事詩を模して福音書を書いたといえば,
何だか価値が低くなるような気がして,反発を覚える人もいるだろうが,
むしろ,当時のギリシャ人の意識としては逆である。
彼らにとって,歴史よりも悲劇の方が重要なのである。
なぜなら,歴史は一回的な事実しか伝えないが,悲劇は永遠の真実を伝えるからである。
(アリストテレス「詩学」の悲劇論より)
以上のような観点より,ルカ伝においては,
最初と真ん中と最後は比較対照として読むべきものである。
(1-5~4-13,10-1~10-24,19-28~23-56)
そして,それぞれの箇所において,まるで舞台の前座を受け持つように,
誰かが遣わされる。
最初では,天使ガブリエルが遣わされる(1-26,απεσταλη ο αγγελοσ)。
真ん中では,彼ら(弟子たち)が遣わされる(10-1,απεστειλεν αυτουσ)。
最後では,使徒たちが遣わされる(19-29,απεστειλεν δυο των μαθητων)。
そして結論部分では,エマオでの無名の弟子たちが遣わされる(24-13~24-35)。
以上のようなルカの記述より判断すれば,天使とは,
羽の生えた神々しい超自然的存在なのではなく,
イエスに先立ち,福音の告知をする存在だということがわかる。
私は,最近,よく考えることがある。
キリスト者-キリストの恵みを知った者-は,
福音を宣べ伝え,宣べ伝える者に参与し,参与して結びつきを強め,
この世と対峙し,この世を救うために呼び出されているのではないか,と。
「この世は神に背いているから破滅するだろう」と呟きつつ,
自分だけはまるで傍観者の位置でこの世の有様を観戦し,一人神の恵みを楽しみ,
一人聖書読解で得た真理を部分的に,いや自己満足的に発表して,
「やあ,我こそは恵まれた者である!」との発言を繰り返すのは,
果たして,福音の事態に適ったものなのだろうか?,と。
聖書において伝えられている福音において,隠れキリシタン的な態度は非福音的である。
十字架に上った方を信じ,従うということは,必然的に,
聞く者があろうがなかろうが,賛同者がいようがいなかろうが,
再臨するイエスに先立ち,福音を告知するのが当然なのではないか!?
神なきこの世を忌み嫌い一人聖書に向かわせた福音は,
今度は,神なきこの世の苦しみを一人担うために外へと向かわせるのではないか!?
「あとは神様が救って下さる」というような,自己及び社会に対する態度は,
イエスが第三の試みで誘惑されたように(ルカ伝3-1~4-13),
神を用いて自己の義を担保することではないのか!?
使徒行伝の研究を続けつつ,かかる自問自答を続ける日々である。
あなたに話をし,この喜びの訪れを伝えるように遣わされているのです」
(ルカ伝1-19)
聖書において,天使とは何なのだろうか?
「天使とは何か?」ということを考える際に,まずやってはいけないことは,
天使という語(αγγελοσ:アンゲロス)を調べて,
その辞書的意味によって,天使というものを定義することである。
これは日本語でも同様のことが言えるのだが,たいてい辞書というものは,
きわめて一般的な抽象的な意味を伝えるだけで,
その著者が考えていた語の意味を教えるものではない。
かかる抽象的な意味を採用するということは,
当たり障りのない解釈のすき間に自分の妄想を挿入することを意味し,
強いては,ある著作の著者の価値意識をはなから無視することになる。
結果的に,辞書にだけ頼って著述を読むということは,
自分の価値意識をその本に投影して,自己満足するという,
まったく馬鹿げた事態を引き起こすことになるのである。
(結構,そんな原典読解がネット上に多いのは,非常に悲しむべきことである)
私がこれから考えたいのは,ルカ福音書における天使という存在であるから,
ルカ福音書全体の内容に照らして,天使というものを考えねばならない。
人があまり注目しないことであるが,ルカ伝という著作は,
他の福音書(マタイ・マルコ・ヨハネ)に比べて,きわめて異質な書き方がされている。
古代ギリシャの悲劇で用いられている形式が,この福音書では用いられているのである。
(アリストテレス「詩学」)
物語全体の最初と真ん中と最後を強調すること,
(事実,最初と真ん中と最後に,イエスの祈り及び聖霊の降下が語られている)
「逆転と認知」の舞台設定をすること,
(人々の無知が,復活したイエスとの出会いによって知へと逆転する)
重要な場面では前奏曲としてコロスを導入すること。
(イエスの誕生と死において,大勢の賛美の声があがっている)
福音書記者ルカが悲劇や叙事詩を模して福音書を書いたといえば,
何だか価値が低くなるような気がして,反発を覚える人もいるだろうが,
むしろ,当時のギリシャ人の意識としては逆である。
彼らにとって,歴史よりも悲劇の方が重要なのである。
なぜなら,歴史は一回的な事実しか伝えないが,悲劇は永遠の真実を伝えるからである。
(アリストテレス「詩学」の悲劇論より)
以上のような観点より,ルカ伝においては,
最初と真ん中と最後は比較対照として読むべきものである。
(1-5~4-13,10-1~10-24,19-28~23-56)
そして,それぞれの箇所において,まるで舞台の前座を受け持つように,
誰かが遣わされる。
最初では,天使ガブリエルが遣わされる(1-26,απεσταλη ο αγγελοσ)。
真ん中では,彼ら(弟子たち)が遣わされる(10-1,απεστειλεν αυτουσ)。
最後では,使徒たちが遣わされる(19-29,απεστειλεν δυο των μαθητων)。
そして結論部分では,エマオでの無名の弟子たちが遣わされる(24-13~24-35)。
以上のようなルカの記述より判断すれば,天使とは,
羽の生えた神々しい超自然的存在なのではなく,
イエスに先立ち,福音の告知をする存在だということがわかる。
私は,最近,よく考えることがある。
キリスト者-キリストの恵みを知った者-は,
福音を宣べ伝え,宣べ伝える者に参与し,参与して結びつきを強め,
この世と対峙し,この世を救うために呼び出されているのではないか,と。
「この世は神に背いているから破滅するだろう」と呟きつつ,
自分だけはまるで傍観者の位置でこの世の有様を観戦し,一人神の恵みを楽しみ,
一人聖書読解で得た真理を部分的に,いや自己満足的に発表して,
「やあ,我こそは恵まれた者である!」との発言を繰り返すのは,
果たして,福音の事態に適ったものなのだろうか?,と。
聖書において伝えられている福音において,隠れキリシタン的な態度は非福音的である。
十字架に上った方を信じ,従うということは,必然的に,
聞く者があろうがなかろうが,賛同者がいようがいなかろうが,
再臨するイエスに先立ち,福音を告知するのが当然なのではないか!?
神なきこの世を忌み嫌い一人聖書に向かわせた福音は,
今度は,神なきこの世の苦しみを一人担うために外へと向かわせるのではないか!?
「あとは神様が救って下さる」というような,自己及び社会に対する態度は,
イエスが第三の試みで誘惑されたように(ルカ伝3-1~4-13),
神を用いて自己の義を担保することではないのか!?
使徒行伝の研究を続けつつ,かかる自問自答を続ける日々である。
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