イエスは言われた。
「苦しみを受ける前に,あなた方と共にこの過越の食事をしたいと,
わたしは切に願っていた。言っておくが,神の国で過越が成し遂げられるまで,
わたしは決してこの過越の食事をとることはない」
(ルカ伝22-15・16/新共同訳)
「わたしは切に願っていた」と訳されている表現は,
欲求(επιθυμια)という語に不定詞(Φαγειν)が伴った表現で,
ルカ文書においては,成就されなかった願いを表している。
(15-16,16-21,17-22)
また,この箇所の次に来る「杯を取って,互いに分けよ(22-17)」とは,
ルカが資料として用いたマルコ伝では「杯を取れ」だけなのに,
ルカが「互いに分けよ」を付加したものである。
まるで,イエス自身は何も飲んでいないかのように・・・。
以上の二箇所から判断して,ルカ伝におけるイエスは,
最後の晩餐において,パンもぶどう酒も口にしていないことがわかる。
すなわちイエスは,断食をしているのである。
(J・エレミアス「イエスの聖餐のことば」)
当時のユダヤ人において断食とは,神に対する願い,
特に,罪を犯す者の赦しを願う際に人間が為す行為である。
(ディダケー1-3)
イエスはこの断食において,何を願っているかというと,
「神の国が成就するまで」と書いているように,
人々が悔い改めて,聖霊を受け,神に従って生きることである。
すなわち,ルカ伝においては,
最後の晩餐から既にゲッセマネの祈りが始まっていた,と解釈せねばならない。
(その絶頂が「父よ,彼らの罪をお赦し下さい」との十字架上の言葉である)
イエスは人々の罪の赦しを願った。
だがイエスの願いに反して,弟子たちは裏切った。
しかし,裏切った弟子たちをも,赦し,受け入れ,救いに定めたという告知が,
復活したイエスによる弟子との食事である(24-43 ενωπιον)。
この時,彼らの目は開き,イエスを知る(24-45 διηνοιζεν)。
この時,彼らから悔い改めが起こり,罪の赦しを知る(24-47 μετανοιαν)。
そして,自分自身が体験した罪の赦しの福音を告げ知らせるべく,
弟子たちはこの世のあらゆる場所に遣わされるのである(使徒行伝)。
「神は信仰のみによって義とされる」と言って,
何の願望も欲求も行為も伴わない信仰は,
ルカ伝に照らしてみて(他の福音書においてもそうであるが),偽りである。
この強烈なる意志の人に従うということは,
必然的に人間をして,神の国成就の願望者たらしめる。
「神の絶対的恵みを知った者は,強烈なる意志の人になる」というのが,
ルカ伝のみならず四福音書の結論である。
「苦しみを受ける前に,あなた方と共にこの過越の食事をしたいと,
わたしは切に願っていた。言っておくが,神の国で過越が成し遂げられるまで,
わたしは決してこの過越の食事をとることはない」
(ルカ伝22-15・16/新共同訳)
「わたしは切に願っていた」と訳されている表現は,
欲求(επιθυμια)という語に不定詞(Φαγειν)が伴った表現で,
ルカ文書においては,成就されなかった願いを表している。
(15-16,16-21,17-22)
また,この箇所の次に来る「杯を取って,互いに分けよ(22-17)」とは,
ルカが資料として用いたマルコ伝では「杯を取れ」だけなのに,
ルカが「互いに分けよ」を付加したものである。
まるで,イエス自身は何も飲んでいないかのように・・・。
以上の二箇所から判断して,ルカ伝におけるイエスは,
最後の晩餐において,パンもぶどう酒も口にしていないことがわかる。
すなわちイエスは,断食をしているのである。
(J・エレミアス「イエスの聖餐のことば」)
当時のユダヤ人において断食とは,神に対する願い,
特に,罪を犯す者の赦しを願う際に人間が為す行為である。
(ディダケー1-3)
イエスはこの断食において,何を願っているかというと,
「神の国が成就するまで」と書いているように,
人々が悔い改めて,聖霊を受け,神に従って生きることである。
すなわち,ルカ伝においては,
最後の晩餐から既にゲッセマネの祈りが始まっていた,と解釈せねばならない。
(その絶頂が「父よ,彼らの罪をお赦し下さい」との十字架上の言葉である)
イエスは人々の罪の赦しを願った。
だがイエスの願いに反して,弟子たちは裏切った。
しかし,裏切った弟子たちをも,赦し,受け入れ,救いに定めたという告知が,
復活したイエスによる弟子との食事である(24-43 ενωπιον)。
この時,彼らの目は開き,イエスを知る(24-45 διηνοιζεν)。
この時,彼らから悔い改めが起こり,罪の赦しを知る(24-47 μετανοιαν)。
そして,自分自身が体験した罪の赦しの福音を告げ知らせるべく,
弟子たちはこの世のあらゆる場所に遣わされるのである(使徒行伝)。
「神は信仰のみによって義とされる」と言って,
何の願望も欲求も行為も伴わない信仰は,
ルカ伝に照らしてみて(他の福音書においてもそうであるが),偽りである。
この強烈なる意志の人に従うということは,
必然的に人間をして,神の国成就の願望者たらしめる。
「神の絶対的恵みを知った者は,強烈なる意志の人になる」というのが,
ルカ伝のみならず四福音書の結論である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます