キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

イエスの断食

2011-05-29 18:25:57 | 聖書原典研究(共観福音書)
イエスは言われた。
「苦しみを受ける前に,あなた方と共にこの過越の食事をしたいと,
わたしは切に願っていた。言っておくが,神の国で過越が成し遂げられるまで,
わたしは決してこの過越の食事をとることはない」
(ルカ伝22-15・16/新共同訳)



「わたしは切に願っていた」と訳されている表現は,

欲求(επιθυμια)という語に不定詞(Φαγειν)が伴った表現で,

ルカ文書においては,成就されなかった願いを表している。
(15-16,16-21,17-22)

また,この箇所の次に来る「杯を取って,互いに分けよ(22-17)」とは,

ルカが資料として用いたマルコ伝では「杯を取れ」だけなのに,

ルカが「互いに分けよ」を付加したものである。

まるで,イエス自身は何も飲んでいないかのように・・・。

以上の二箇所から判断して,ルカ伝におけるイエスは,

最後の晩餐において,パンもぶどう酒も口にしていないことがわかる。

すなわちイエスは,断食をしているのである。
(J・エレミアス「イエスの聖餐のことば」)


当時のユダヤ人において断食とは,神に対する願い,

特に,罪を犯す者の赦しを願う際に人間が為す行為である。
(ディダケー1-3)

イエスはこの断食において,何を願っているかというと,

「神の国が成就するまで」と書いているように,

人々が悔い改めて,聖霊を受け,神に従って生きることである。

すなわち,ルカ伝においては,

最後の晩餐から既にゲッセマネの祈りが始まっていた,と解釈せねばならない。
(その絶頂が「父よ,彼らの罪をお赦し下さい」との十字架上の言葉である)


イエスは人々の罪の赦しを願った。

だがイエスの願いに反して,弟子たちは裏切った。

しかし,裏切った弟子たちをも,赦し,受け入れ,救いに定めたという告知が,

復活したイエスによる弟子との食事である(24-43 ενωπιον)。

この時,彼らの目は開き,イエスを知る(24-45 διηνοιζεν)。

この時,彼らから悔い改めが起こり,罪の赦しを知る(24-47 μετανοιαν)。

そして,自分自身が体験した罪の赦しの福音を告げ知らせるべく,

弟子たちはこの世のあらゆる場所に遣わされるのである(使徒行伝)。


「神は信仰のみによって義とされる」と言って,

何の願望も欲求も行為も伴わない信仰は,

ルカ伝に照らしてみて(他の福音書においてもそうであるが),偽りである。

この強烈なる意志の人に従うということは,

必然的に人間をして,神の国成就の願望者たらしめる。

「神の絶対的恵みを知った者は,強烈なる意志の人になる」というのが,

ルカ伝のみならず四福音書の結論である。



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