無学な人や心の定まらない人は、
それ(パウロ書簡)を聖書の他の部分と同様に曲解し、
自分の滅びを招いている。(ペテロ書Ⅱ3-16)
ペテロ書Ⅱの著者が言うように、パウロの書簡、
特にローマ書は、昔から誤解され易い書である。
分かる者には分かり、人間を救いに至らせ、
分からない者には分からず、逆に、人間を滅びに至らせる。
これ、使徒パウロが悪いのではなく、読む側の問題なのである。
ヨハネ福音書やヨハネ書の誤訳は、
「時制の間違い」などによる微妙なニュアンスの変化であるが、
それがローマ書にもなると、1章から始まって15章まで至る、誤訳の連鎖である。
そしてかかる誤解の連鎖の要に位置するのが、
ある単語の間違いと、ある接続詞の無視なのである。
ローマ書において信仰と訳されている単語ピスティス(πiστs)とは、
信仰とも信頼とも真実とも訳せる単語である。
人間に関して用いれば信仰・信頼と訳され、神に関して用いれば真実と訳せる。
(なぜなら、信仰・信頼は神に対するものであれば、神の信仰ということ自体ナンセンスである)
ハバクク書の引用から判断すれば、
パウロは明らかに「(神の)真実」としてこの単語を用いている。
すなわち、人間が救われる条件としてパウロが挙げているピスティスとは、
人間の側の信仰や信頼ではなく、神の真実である
イエス・キリストであるといえる。
日本語訳聖書がピスティスを信仰や信頼と訳そうと、
それ自体はたいした問題ではない。
なぜなら、「人は信仰によって救われる」という聖句を読もうが、
そこに「神の真実によって救われる」というメッセージを感じ取ることができれば、
実際は同じことなのだから。
それよりも問題なのは、「(神の)真実」を「(人の)信仰」と訳した言葉を読んで、
無意識的に神ではなく人に目を向け始め、
唯一の神の事柄(福音)に人間的区別を介入させることである。
すなわち、神の憐れみを伝えている部分を、
救われた者と救われない者の区別を説いたものと勘違いし、
人類の断罪を述べた部分を、
(ユダヤ人ではない)異邦人の罪を述べたものと誤解する。
そして、さらに悪いことに、ピスティスの誤解が、
ある接続詞の無視によって、より助長されるのである。
パウロが多用するガル(γαρ:なぜなら)である。
理由や原因を意味する接続詞ガルを無視することによって、
文と文の接続を断ち切り、パウロがただただ福音を語ろうとした箇所を、
人間的区別知を意味するものとして誤解していくのである。
具体的に見ていこう。
1-17にあるピスティスを信仰と訳し、1-18にあるガルを無視することによって、
1章から3章までパウロが語っている「人類の罪」の暴露が、
「異邦人の罪」と「ユダヤ人の罪」を順次暴露したものとして誤解されている。
パウロがこの書を口述した時の心境はきっと、
イエス・キリストの十字架によって啓示されている「全人類への断罪」である。
そしてこの断罪の炎から逃れんとする者に対し、パウロは追撃するように攻撃する。
それを、まず異邦人特有の罪を述べ、
しかる後に、まるで神学論文を書いているかのように、
ユダヤ人特有の罪を述べたとしているのである。
次に3-22のピスティスを信仰と訳し、
3-27のノモス(νoμos:律法)を法則と訳すことによって、
7章において語られている、キリストを知っているからこそ犯す罪を、
キリストを知る前の罪の想起と勘違いさせ、
8章において語られている、キリストによる律法の成就を、
ある不可思議な霊的状態であると誤解させる。
また9-17のガルを無視することによって、
救われた者と救われない者の区別を説き、神の冷たい予定が強調されているが、
本来は、この両者の上に立つ「神の憐れみ」を説いたものである。
また12-1のガルを軽視し、12-6のピスティスを信仰と訳すことによって、
12・13章において記述されている、福音に押し出された人間の生を、
キリスト者同士の倫理と非キリスト者への倫理を分けて述べたと誤解させている。
最後に、14-22のピスティスを信仰と訳すことによって、
14章における神の最後の全能を、
強い者と弱い者の区別を語ったものとして誤解せしめている。
以上きりがないが、ピスティスを神の真実と理解できる者にとって、
1章から15章まですべて福音である。
しかしピスティスを人の信仰と理解している者にとっては、
3章から8章までが本来的な意味での福音となる。
3章から8章までの限定された福音だけを信じる者にとって、
イエス・キリストは人間の友であり、兄弟でもある。
しかし15章すべてが福音だと理解でき、自分の罪に反して自分を救い(1~8章)、
人の不従順に反して人を救い(9~11章)、
人をして、隣人と時代に対する具体的生に押し出す福音(12~14章)、
その福音を解する者にとって、己自身はもはや、
イエス・キリストの奴隷でしかない(1-1)。
ピスティスを「神の真実」と訳して全体を読むとき、
自分を救うのも人類を救うのも、さらには自分の具体的な人生も、
イエス・キリスト御一人にかかるのだから、
人は何となく物足りなく思う。
しかしローマ書は、パウロ自身も言うように、
「かなり大胆に書いた(15-15)」のであるから、
徹頭徹尾、危険なぐらいに、キリストの十字架を見つめて読む書である。
それを人間の信仰、人間の倫理、人間の団体、そういった人間を見つめて読むとき、
この書は煩瑣な神学論文となって、まるで分からない書となる。
それ(パウロ書簡)を聖書の他の部分と同様に曲解し、
自分の滅びを招いている。(ペテロ書Ⅱ3-16)
ペテロ書Ⅱの著者が言うように、パウロの書簡、
特にローマ書は、昔から誤解され易い書である。
分かる者には分かり、人間を救いに至らせ、
分からない者には分からず、逆に、人間を滅びに至らせる。
これ、使徒パウロが悪いのではなく、読む側の問題なのである。
ヨハネ福音書やヨハネ書の誤訳は、
「時制の間違い」などによる微妙なニュアンスの変化であるが、
それがローマ書にもなると、1章から始まって15章まで至る、誤訳の連鎖である。
そしてかかる誤解の連鎖の要に位置するのが、
ある単語の間違いと、ある接続詞の無視なのである。
ローマ書において信仰と訳されている単語ピスティス(πiστs)とは、
信仰とも信頼とも真実とも訳せる単語である。
人間に関して用いれば信仰・信頼と訳され、神に関して用いれば真実と訳せる。
(なぜなら、信仰・信頼は神に対するものであれば、神の信仰ということ自体ナンセンスである)
ハバクク書の引用から判断すれば、
パウロは明らかに「(神の)真実」としてこの単語を用いている。
すなわち、人間が救われる条件としてパウロが挙げているピスティスとは、
人間の側の信仰や信頼ではなく、神の真実である
イエス・キリストであるといえる。
日本語訳聖書がピスティスを信仰や信頼と訳そうと、
それ自体はたいした問題ではない。
なぜなら、「人は信仰によって救われる」という聖句を読もうが、
そこに「神の真実によって救われる」というメッセージを感じ取ることができれば、
実際は同じことなのだから。
それよりも問題なのは、「(神の)真実」を「(人の)信仰」と訳した言葉を読んで、
無意識的に神ではなく人に目を向け始め、
唯一の神の事柄(福音)に人間的区別を介入させることである。
すなわち、神の憐れみを伝えている部分を、
救われた者と救われない者の区別を説いたものと勘違いし、
人類の断罪を述べた部分を、
(ユダヤ人ではない)異邦人の罪を述べたものと誤解する。
そして、さらに悪いことに、ピスティスの誤解が、
ある接続詞の無視によって、より助長されるのである。
パウロが多用するガル(γαρ:なぜなら)である。
理由や原因を意味する接続詞ガルを無視することによって、
文と文の接続を断ち切り、パウロがただただ福音を語ろうとした箇所を、
人間的区別知を意味するものとして誤解していくのである。
具体的に見ていこう。
1-17にあるピスティスを信仰と訳し、1-18にあるガルを無視することによって、
1章から3章までパウロが語っている「人類の罪」の暴露が、
「異邦人の罪」と「ユダヤ人の罪」を順次暴露したものとして誤解されている。
パウロがこの書を口述した時の心境はきっと、
イエス・キリストの十字架によって啓示されている「全人類への断罪」である。
そしてこの断罪の炎から逃れんとする者に対し、パウロは追撃するように攻撃する。
それを、まず異邦人特有の罪を述べ、
しかる後に、まるで神学論文を書いているかのように、
ユダヤ人特有の罪を述べたとしているのである。
次に3-22のピスティスを信仰と訳し、
3-27のノモス(νoμos:律法)を法則と訳すことによって、
7章において語られている、キリストを知っているからこそ犯す罪を、
キリストを知る前の罪の想起と勘違いさせ、
8章において語られている、キリストによる律法の成就を、
ある不可思議な霊的状態であると誤解させる。
また9-17のガルを無視することによって、
救われた者と救われない者の区別を説き、神の冷たい予定が強調されているが、
本来は、この両者の上に立つ「神の憐れみ」を説いたものである。
また12-1のガルを軽視し、12-6のピスティスを信仰と訳すことによって、
12・13章において記述されている、福音に押し出された人間の生を、
キリスト者同士の倫理と非キリスト者への倫理を分けて述べたと誤解させている。
最後に、14-22のピスティスを信仰と訳すことによって、
14章における神の最後の全能を、
強い者と弱い者の区別を語ったものとして誤解せしめている。
以上きりがないが、ピスティスを神の真実と理解できる者にとって、
1章から15章まですべて福音である。
しかしピスティスを人の信仰と理解している者にとっては、
3章から8章までが本来的な意味での福音となる。
3章から8章までの限定された福音だけを信じる者にとって、
イエス・キリストは人間の友であり、兄弟でもある。
しかし15章すべてが福音だと理解でき、自分の罪に反して自分を救い(1~8章)、
人の不従順に反して人を救い(9~11章)、
人をして、隣人と時代に対する具体的生に押し出す福音(12~14章)、
その福音を解する者にとって、己自身はもはや、
イエス・キリストの奴隷でしかない(1-1)。
ピスティスを「神の真実」と訳して全体を読むとき、
自分を救うのも人類を救うのも、さらには自分の具体的な人生も、
イエス・キリスト御一人にかかるのだから、
人は何となく物足りなく思う。
しかしローマ書は、パウロ自身も言うように、
「かなり大胆に書いた(15-15)」のであるから、
徹頭徹尾、危険なぐらいに、キリストの十字架を見つめて読む書である。
それを人間の信仰、人間の倫理、人間の団体、そういった人間を見つめて読むとき、
この書は煩瑣な神学論文となって、まるで分からない書となる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます