愛には恐れがありません。
・・・・・・・・・・・
私たちが愛するのは、
神がまず私たちを愛したからです。
・・・・・・・・・・・
目に見える兄弟を愛さない者は、
目に見えない兄弟を愛することができません。
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神を愛する人は、兄弟を愛すべきです。
(ヨハネ書Ⅰ4-18~21/新共同訳)
キリスト教の教えは「愛」であるという、
そして新約聖書で最も「愛」を強烈に説いたのが、
使徒ヨハネが記したとされるヨハネ書Ⅰである。
我々はヨハネ書Ⅰを精読して、聖書の言うところの愛が、
いかなる性質のものであるかを理解せねばならぬ。
愛には恐れがありません。(ヨハネ書Ⅰ4-18)
前文までのヨハネの論旨より判断すれば、
恐れのない愛とは、我々の愛ではなく、神の愛である。
私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛したからです。(ヨハネ書Ⅰ4-19)
「私たちが愛する」その対象として前提されているのは、
人間相互ではなく神である。
さらに「神」と訳された単語は本来、「彼(αuτos)」という意味であり、
神ではなくイエスのことを指す。
訳しなおすと、下記のようになる。
私たちが神を愛するのは、イエスがまず私たちを愛したからです。
(ヨハネ書Ⅰ4-19)
目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない兄弟を愛することができない。
(ヨハネ書Ⅰ4-20)
「愛さない者」と訳された単語は現在分詞であることから、
愛していない者という意であり、
「愛することができない」と訳された単語は現在不定であることから、
愛し続けることができないとすべきである。
すなわち、こうなる。
目に見える兄弟を愛していない者は、目に見えない神を愛し続けることができない。
(ヨハネ書Ⅰ4-20/私訳)
神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。(ヨハネ書Ⅰ4-21)
「愛すべき」と訳された単語アガパ(αγαπα)とは、
「愛すべき」という命令法にも、「愛している」という接続法にもとれる。
前文までの意味よりすれば、ヨハネは倫理的命令として愛を要求しているのではなく、
イエスに愛された者の自然的帰結としての愛を述べているから、
「愛している」と訳すべきである。
以上の考察により全体を訳しなおせば、下記のようになる。
(神の)愛には恐れがありません。
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私たちが神を愛しているのは、
イエスがまず私たちを愛したからです。
・・・・・・・・・・・・・・
目に見える兄弟を愛していない者は、
目に見えない神を愛し続けることができません。
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神を愛している人は、兄弟をも愛します。
(ヨハネ書Ⅰ4-18~21)
よって、聖書の主張する愛がいかなるものであるかは明らかだ。
神への愛の条件として人に対する愛を要求しているのではなく、
神が我々を愛した自然的帰結として、人は人を愛するようになる、ということである。
イエス・キリストの十字架によって示された神の愛、
その愛は、「私」という罪深く愛の枯渇した容器を満たし、
満たし尽くして容器より溢れ、「私」の周囲に注がれる。
イエス・キリストという神の愛、この愛は、
審判に対する恐れ、自分の罪深さに対する恐れ、人を愛せない恐れ、
神を信じていなかったし、強い信仰を持つことができない恐れ、
かかる全ての恐れを克服して、「私」の内に満たされ、
「私」に反して、人を愛さしめるようになる。
聖書の伝える愛とは、このような愛である。
だから、かかる福音を聞いた者の為すべきことは、
他人を愛そうと我武者羅になるのではなく、
自分が救われようと決意することでもなく、
特定の善行を注意深く為すことでもない。
ただ神の愛(イエス・キリスト)を受けること、
すなわち神から愛されることである。
自分の救いも他人への愛も、己自ら成し遂げるものではない。
イエス・キリストに身を任せて、
自然法爾的(親鸞)に成し遂げられるものである。
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私たちが愛するのは、
神がまず私たちを愛したからです。
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目に見える兄弟を愛さない者は、
目に見えない兄弟を愛することができません。
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神を愛する人は、兄弟を愛すべきです。
(ヨハネ書Ⅰ4-18~21/新共同訳)
キリスト教の教えは「愛」であるという、
そして新約聖書で最も「愛」を強烈に説いたのが、
使徒ヨハネが記したとされるヨハネ書Ⅰである。
我々はヨハネ書Ⅰを精読して、聖書の言うところの愛が、
いかなる性質のものであるかを理解せねばならぬ。
愛には恐れがありません。(ヨハネ書Ⅰ4-18)
前文までのヨハネの論旨より判断すれば、
恐れのない愛とは、我々の愛ではなく、神の愛である。
私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛したからです。(ヨハネ書Ⅰ4-19)
「私たちが愛する」その対象として前提されているのは、
人間相互ではなく神である。
さらに「神」と訳された単語は本来、「彼(αuτos)」という意味であり、
神ではなくイエスのことを指す。
訳しなおすと、下記のようになる。
私たちが神を愛するのは、イエスがまず私たちを愛したからです。
(ヨハネ書Ⅰ4-19)
目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない兄弟を愛することができない。
(ヨハネ書Ⅰ4-20)
「愛さない者」と訳された単語は現在分詞であることから、
愛していない者という意であり、
「愛することができない」と訳された単語は現在不定であることから、
愛し続けることができないとすべきである。
すなわち、こうなる。
目に見える兄弟を愛していない者は、目に見えない神を愛し続けることができない。
(ヨハネ書Ⅰ4-20/私訳)
神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。(ヨハネ書Ⅰ4-21)
「愛すべき」と訳された単語アガパ(αγαπα)とは、
「愛すべき」という命令法にも、「愛している」という接続法にもとれる。
前文までの意味よりすれば、ヨハネは倫理的命令として愛を要求しているのではなく、
イエスに愛された者の自然的帰結としての愛を述べているから、
「愛している」と訳すべきである。
以上の考察により全体を訳しなおせば、下記のようになる。
(神の)愛には恐れがありません。
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私たちが神を愛しているのは、
イエスがまず私たちを愛したからです。
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目に見える兄弟を愛していない者は、
目に見えない神を愛し続けることができません。
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神を愛している人は、兄弟をも愛します。
(ヨハネ書Ⅰ4-18~21)
よって、聖書の主張する愛がいかなるものであるかは明らかだ。
神への愛の条件として人に対する愛を要求しているのではなく、
神が我々を愛した自然的帰結として、人は人を愛するようになる、ということである。
イエス・キリストの十字架によって示された神の愛、
その愛は、「私」という罪深く愛の枯渇した容器を満たし、
満たし尽くして容器より溢れ、「私」の周囲に注がれる。
イエス・キリストという神の愛、この愛は、
審判に対する恐れ、自分の罪深さに対する恐れ、人を愛せない恐れ、
神を信じていなかったし、強い信仰を持つことができない恐れ、
かかる全ての恐れを克服して、「私」の内に満たされ、
「私」に反して、人を愛さしめるようになる。
聖書の伝える愛とは、このような愛である。
だから、かかる福音を聞いた者の為すべきことは、
他人を愛そうと我武者羅になるのではなく、
自分が救われようと決意することでもなく、
特定の善行を注意深く為すことでもない。
ただ神の愛(イエス・キリスト)を受けること、
すなわち神から愛されることである。
自分の救いも他人への愛も、己自ら成し遂げるものではない。
イエス・キリストに身を任せて、
自然法爾的(親鸞)に成し遂げられるものである。
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