キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

聖書が説く「愛」

2009-08-09 15:46:49 | 聖書原典研究(ヨハネ文書)
愛には恐れがありません。
・・・・・・・・・・・
私たちが愛するのは、
神がまず私たちを愛したからです。
・・・・・・・・・・・
目に見える兄弟を愛さない者は、
目に見えない兄弟を愛することができません。
・・・・・・・・・・・
神を愛する人は、兄弟を愛すべきです。
(ヨハネ書Ⅰ4-18~21/新共同訳)



キリスト教の教えは「愛」であるという、

そして新約聖書で最も「愛」を強烈に説いたのが、

使徒ヨハネが記したとされるヨハネ書Ⅰである。

我々はヨハネ書Ⅰを精読して、聖書の言うところの愛が、

いかなる性質のものであるかを理解せねばならぬ。


愛には恐れがありません。(ヨハネ書Ⅰ4-18)

前文までのヨハネの論旨より判断すれば、

恐れのない愛とは、我々の愛ではなく、神の愛である。


私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛したからです。(ヨハネ書Ⅰ4-19)

「私たちが愛する」その対象として前提されているのは、

人間相互ではなく神である。

さらに「神」と訳された単語は本来、「彼(αuτos)」という意味であり、

神ではなくイエスのことを指す。

訳しなおすと、下記のようになる。

私たちが神を愛するのは、イエスがまず私たちを愛したからです。
(ヨハネ書Ⅰ4-19)


目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない兄弟を愛することができない。
(ヨハネ書Ⅰ4-20)

「愛さない者」と訳された単語は現在分詞であることから、

愛していない者という意であり、

「愛することができない」と訳された単語は現在不定であることから、

愛し続けることができないとすべきである。

すなわち、こうなる。

目に見える兄弟を愛していない者は、目に見えない神を愛し続けることができない。
(ヨハネ書Ⅰ4-20/私訳)


神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。(ヨハネ書Ⅰ4-21)

「愛すべき」と訳された単語アガパ(αγαπα)とは、

「愛すべき」という命令法にも、「愛している」という接続法にもとれる。

前文までの意味よりすれば、ヨハネは倫理的命令として愛を要求しているのではなく、

イエスに愛された者の自然的帰結としての愛を述べているから、

「愛している」と訳すべきである。


以上の考察により全体を訳しなおせば、下記のようになる。


(神の)愛には恐れがありません。
・・・・・・・・・・・・・・
私たちが神を愛しているのは、
イエスがまず私たちを愛したからです。
・・・・・・・・・・・・・・
目に見える兄弟を愛していない者は、
目に見えない神を愛し続けることができません。
・・・・・・・・・・・・・・
神を愛している人は、兄弟をも愛します。
(ヨハネ書Ⅰ4-18~21)


よって、聖書の主張する愛がいかなるものであるかは明らかだ。

神への愛の条件として人に対する愛を要求しているのではなく、

神が我々を愛した自然的帰結として、人は人を愛するようになる、ということである。

イエス・キリストの十字架によって示された神の愛、

その愛は、「私」という罪深く愛の枯渇した容器を満たし、

満たし尽くして容器より溢れ、「私」の周囲に注がれる。

イエス・キリストという神の愛、この愛は、

審判に対する恐れ、自分の罪深さに対する恐れ、人を愛せない恐れ、

神を信じていなかったし、強い信仰を持つことができない恐れ、

かかる全ての恐れを克服して、「私」の内に満たされ、

「私」に反して、人を愛さしめるようになる。

聖書の伝える愛とは、このような愛である。


だから、かかる福音を聞いた者の為すべきことは、

他人を愛そうと我武者羅になるのではなく、

自分が救われようと決意することでもなく、

特定の善行を注意深く為すことでもない。

ただ神の愛(イエス・キリスト)を受けること、

すなわち神から愛されることである。

自分の救いも他人への愛も、己自ら成し遂げるものではない。

イエス・キリストに身を任せて、

自然法爾的(親鸞)に成し遂げられるものである。



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