人は、新たに生まれなければ、
神の国を見ることはできない。(ヨハネ伝3-3)
天国は何か?
死んだら誰もが行くことができ、
自分の身内が手を広げて待っている、
お花畑が広がるような世界なのだろうか?
もしくは、羽が生えて光り輝く天使たちが舞い、
四方八方が神々しさに包まれていて、
生前の倫理的功績によって、
許された者だけが住むことのできる世界なのだろうか?
人間は霊魂を有する存在であれば、天国の本質を知ることは、
老いた者だけが考えるべき問題ではなく、
誰もが問うべき問題である。
天国という語が初めて使われたのは、新約聖書の中国語訳である。
イエスが述べた言葉である「天(oρανoυ:ウラノウ)の国」とは、
本来、不可視(oρανoυ:ウラノウ)の国という意味であって、
イエス自身が「神(βασiλεiαν:バシレイアン)の国」を言い換えた語である。
さらにβασiλεiαν(バシレイアン)とは本来、
「神の王権支配」という意味であることから(イザヤ書)、
天国とは、神が王として支配されることを意味する。
すなわち、天国の語源を順次遡っていけば、
天国→天の国→神の国→神の王権支配となり、
天国とは、ある空間の状態ではなく、神の主権性が実行される意味となる。
普通日本人が想像するように、天国とは人間の願望が叶う場所なのではなく、
神の義が実行される意なのである。
それはすなわち、聖書の主張に従えば、
イエス・キリスト御自身を指す。
天国とは、死んだら誰もが行くことのできる、
この世の重荷から誰もが解放される場所なのではなく、
イエス・キリスト御自身のことである。
この方の中にあって、人は神の義を受け、神を愛し、神の子とされる。
この罪の世の只中にあって、しかもこの罪の身そのままの状態で、
人はイエス・キリストにあって天国(神の王権支配)に入ることができる。
これが、本来的な天国の意味である。
ならば、普通日本人が想像するような天国とは、
一体どこにその起源を持つのだろうか?
天国・地獄の概念が初めて日本人に浸透したのは、
平安末期の僧侶・源信僧都の「往生要集」によってである。
この書において源信は、阿弥陀仏に念仏すれば、
極楽浄土(天国)に行くことができると説いている。
ならば、源信の天国・地獄観に影響を与えた書は何かというと、
それは浄土宗系の根本経典である「浄土三部経」である。
ならば、浄土三部経はどのようにして成立したのかというと、
中央アジアである。
東洋史の権威・宮崎市定氏によると、浄土三部経が成立した原因は、
イスラム教の勃興であるという。
イスラム教といえば、唯一神アラーへの服従が今では想起されるが、
唯一神信仰といえば、ユダヤ教もキリスト教もゾロアスター教も同一である。
ならばなぜゆえ、イスラム教が燎原の火の如く広がったかというと、
その来世観によるという。
聖書や仏典においては希薄だった死後の世界が、
当時の人々にとっては新鮮だったらしく、
イスラム教はメッカから砂漠地帯を中心に広がり、
既に中央アジアの支配宗教であった仏教を、
教えの方面から圧迫したのだ。
ここで、仏教徒はイスラム教に対抗する必要があり、
仏典の中にも来世観を導入し、今の浄土三部経を作ったのだという。
すなわち、天国といえば聖書発祥の概念であると勘違いしているが、
日本人が想起するような天国観とは、本来イスラム教発祥のものなのである。
イスラム教由来の来世観が日本人のアニミズムと融合して、
今の普通日本人の天国観を形成しているのである。
聖書はイエス・キリストの中に天国があると説いていて、
それは全ての人間的欲望の断絶であり、神の恩恵の賜物であると説く。
しかし我々日本人が抱く天国観とは、死んだら誰もが行く場所であると考え、
無邪気な人間的欲望の成就であり、ある倫理的条件が必要であると説く。
まるで正反対の意なのである。
天国とは、死んだら誰もが行くことのできる世界ではない。
天国とは、この肉体をまといながら、この罪の只中にありながら、
入ることのできる神の支配である。
イエス・キリストの十字架に照らしてみて、
この世とこの身が地獄そのものである。
しかしこの地獄の只中で、イエス・キリストはその憐れみによって、
我々を天国に迎え入れるのである。
天国・地獄とは、ダンテや源信僧都が記述するような上下の関係ではなく、
人は地獄の最深部において、キリストに救われるのである。
「キリストの王国は、罪の只中にある」と言ったルター、
「たとえ地獄に落ちても、私はキリストに依り頼む」と言ったバンヤン、
彼らの心境とは、キリストにある天国のそれなのである。
天国に入りたいか?
ならばイエス・キリストの十字架によって啓示された神の憐れみ、
神の恵み、すなわち神の全能を受け入れよ。(ローマ書1~8章)
そしてその天国とは、キリストの中にある。
キリストの中にあるとは、キリストから始まって、キリストによって保たれ、
キリストによって完成するものである。(ローマ書1-17)
教会(エクレシア)や神学や倫理(愛、善)によって始まり、保たれ、
完成されるものではない。
付記
以上の考察よりすれば、地獄によって人を脅す宗教、
いや、そもそも地獄を死後の世界にあるとして前提する宗教、
そういう宗教は、全て偽りであることが明らかとなる。
「地獄に落としてやる」とのたまうあのおばちゃん(細木数子)、
「私に逆らえば阿鼻叫喚地獄に落ちる」と断言するあの権勢家(大川隆法)、
「地獄に落ちたくなければ信じよ」と連呼する胡散臭いキリスト教的団体、
そういう者らは、何ら真実がわかっていないのである。
神の国を見ることはできない。(ヨハネ伝3-3)
天国は何か?
死んだら誰もが行くことができ、
自分の身内が手を広げて待っている、
お花畑が広がるような世界なのだろうか?
もしくは、羽が生えて光り輝く天使たちが舞い、
四方八方が神々しさに包まれていて、
生前の倫理的功績によって、
許された者だけが住むことのできる世界なのだろうか?
人間は霊魂を有する存在であれば、天国の本質を知ることは、
老いた者だけが考えるべき問題ではなく、
誰もが問うべき問題である。
天国という語が初めて使われたのは、新約聖書の中国語訳である。
イエスが述べた言葉である「天(oρανoυ:ウラノウ)の国」とは、
本来、不可視(oρανoυ:ウラノウ)の国という意味であって、
イエス自身が「神(βασiλεiαν:バシレイアン)の国」を言い換えた語である。
さらにβασiλεiαν(バシレイアン)とは本来、
「神の王権支配」という意味であることから(イザヤ書)、
天国とは、神が王として支配されることを意味する。
すなわち、天国の語源を順次遡っていけば、
天国→天の国→神の国→神の王権支配となり、
天国とは、ある空間の状態ではなく、神の主権性が実行される意味となる。
普通日本人が想像するように、天国とは人間の願望が叶う場所なのではなく、
神の義が実行される意なのである。
それはすなわち、聖書の主張に従えば、
イエス・キリスト御自身を指す。
天国とは、死んだら誰もが行くことのできる、
この世の重荷から誰もが解放される場所なのではなく、
イエス・キリスト御自身のことである。
この方の中にあって、人は神の義を受け、神を愛し、神の子とされる。
この罪の世の只中にあって、しかもこの罪の身そのままの状態で、
人はイエス・キリストにあって天国(神の王権支配)に入ることができる。
これが、本来的な天国の意味である。
ならば、普通日本人が想像するような天国とは、
一体どこにその起源を持つのだろうか?
天国・地獄の概念が初めて日本人に浸透したのは、
平安末期の僧侶・源信僧都の「往生要集」によってである。
この書において源信は、阿弥陀仏に念仏すれば、
極楽浄土(天国)に行くことができると説いている。
ならば、源信の天国・地獄観に影響を与えた書は何かというと、
それは浄土宗系の根本経典である「浄土三部経」である。
ならば、浄土三部経はどのようにして成立したのかというと、
中央アジアである。
東洋史の権威・宮崎市定氏によると、浄土三部経が成立した原因は、
イスラム教の勃興であるという。
イスラム教といえば、唯一神アラーへの服従が今では想起されるが、
唯一神信仰といえば、ユダヤ教もキリスト教もゾロアスター教も同一である。
ならばなぜゆえ、イスラム教が燎原の火の如く広がったかというと、
その来世観によるという。
聖書や仏典においては希薄だった死後の世界が、
当時の人々にとっては新鮮だったらしく、
イスラム教はメッカから砂漠地帯を中心に広がり、
既に中央アジアの支配宗教であった仏教を、
教えの方面から圧迫したのだ。
ここで、仏教徒はイスラム教に対抗する必要があり、
仏典の中にも来世観を導入し、今の浄土三部経を作ったのだという。
すなわち、天国といえば聖書発祥の概念であると勘違いしているが、
日本人が想起するような天国観とは、本来イスラム教発祥のものなのである。
イスラム教由来の来世観が日本人のアニミズムと融合して、
今の普通日本人の天国観を形成しているのである。
聖書はイエス・キリストの中に天国があると説いていて、
それは全ての人間的欲望の断絶であり、神の恩恵の賜物であると説く。
しかし我々日本人が抱く天国観とは、死んだら誰もが行く場所であると考え、
無邪気な人間的欲望の成就であり、ある倫理的条件が必要であると説く。
まるで正反対の意なのである。
天国とは、死んだら誰もが行くことのできる世界ではない。
天国とは、この肉体をまといながら、この罪の只中にありながら、
入ることのできる神の支配である。
イエス・キリストの十字架に照らしてみて、
この世とこの身が地獄そのものである。
しかしこの地獄の只中で、イエス・キリストはその憐れみによって、
我々を天国に迎え入れるのである。
天国・地獄とは、ダンテや源信僧都が記述するような上下の関係ではなく、
人は地獄の最深部において、キリストに救われるのである。
「キリストの王国は、罪の只中にある」と言ったルター、
「たとえ地獄に落ちても、私はキリストに依り頼む」と言ったバンヤン、
彼らの心境とは、キリストにある天国のそれなのである。
天国に入りたいか?
ならばイエス・キリストの十字架によって啓示された神の憐れみ、
神の恵み、すなわち神の全能を受け入れよ。(ローマ書1~8章)
そしてその天国とは、キリストの中にある。
キリストの中にあるとは、キリストから始まって、キリストによって保たれ、
キリストによって完成するものである。(ローマ書1-17)
教会(エクレシア)や神学や倫理(愛、善)によって始まり、保たれ、
完成されるものではない。
付記
以上の考察よりすれば、地獄によって人を脅す宗教、
いや、そもそも地獄を死後の世界にあるとして前提する宗教、
そういう宗教は、全て偽りであることが明らかとなる。
「地獄に落としてやる」とのたまうあのおばちゃん(細木数子)、
「私に逆らえば阿鼻叫喚地獄に落ちる」と断言するあの権勢家(大川隆法)、
「地獄に落ちたくなければ信じよ」と連呼する胡散臭いキリスト教的団体、
そういう者らは、何ら真実がわかっていないのである。
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