キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ことばは肉となった

2007-01-18 00:03:00 | 聖書読解
あなたは、あなたの神、主の御名を、
みだりに唱えてはならない。(申命記5-11)



聖書が「ことばは肉となった」という時、

それは神が一人の人格となったことを意味する。

人格となったのであって、思想ではない。

人間となったのであって、象徴ではない。

すなわち、「キリスト」という名は、

一種の象徴などではなく、

限定された生涯と言葉と目的を意味する。

人間が何か自分の欲求を「キリスト」という言葉に投影し、

まるで様々な部分によって構成された人造人間の頭部のように、

「キリスト」を象徴化して扱うことは許されていない。

阿弥陀仏(親鸞)でも絶対精神(ヘーゲル)でもいいような位置に、

彼の御名を置くことは許されていない。

キリストを語るということは、言葉によって「キリスト!」と語ることではなく、

キリストの霊に感化されることを意味する。

キリストの霊に感化された者は、「キリスト!」と語ることもあるかもしれぬが、

彼の如き生涯を「実行」することを意味する。

「知行合一」とは儒学者・王陽明の主張であるが、

最も深い意味で、知ること・言うこと・行なうことは一つのものでなければならない。


キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、
死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
「それゆえ」
神は、キリストを高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ書2-8・9)


キリストの生涯は、十字架の死にまで従われた謙遜の生涯である。

愛の思想を説いた生涯ではなく、実際に人を愛した生涯である。

十字架の死に至るまで人を愛した、「それゆえ」、神はキリストを高く上げられた。

「しかし」でもなく、「それに反して」でもない。

謙遜の生涯を、強く強く推奨する、神の強烈なメッセージである。

キリストを誰かと取り替えのきくような称号として連呼することによって、

肉となったことばを、まるで肉とならなかったかのように扱い、

聖書の禁ずる自然神学にひざを屈するような行為、

キリストの生涯以外でも神を認識できると世人に受け取られるような行為は、

伝道でも告白でも何でもない。



恐れて弱気になっている者はいないか。
その者は家に帰れ。
戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。
(申命記20-8)



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