あなたがたはキリストのからだであって、
ひとりひとりは各器官なのです。(コリント書Ⅰ12-27)
今まで教会に行ったことのないキリスト者にとって、
「教会」とは一つの謎である。
建物としての教会という意味で、
またはある一定の儀式を強制される宗教団体としての教会サークルという意味で、
私は教会など不必要なものだと考える。
教会を知らない私個人の問題として、教会という言葉は大事なものではなかった。
しかし聖書の中で度々言及されるエクレシア(集まり)を無視して、
聖書の聖句は正しく理解できないと思う。
ルターの言う「集まり」・「教団」・「群れ」、
すなわち、神に義とされた全キリスト者のあり方は、
無視できないどころか、聖書最大の秘儀ではないかと思うのである。
教会はコリント書において、「キリストのからだ」に喩えられている。
キリストが首(かしら)であり、我々はその手足であり、
まるで人間的肉体のような有機的組織に喩えられている。
また教会はヨハネ伝において、「ぶどうの木」に喩えられている。
キリストがその幹であって、我々はその枝であり、
まるで幹から絶えざるエネルギー供給を受ける樹木に喩えられている。
また教会は黙示録において、一種の「円形闘技場」のようなものに喩えられている。
キリストが中央に座し、我々はそれを囲みながら、
キリストの栄光を賛美する群衆に喩えられている。
それら喩えがどういう形をとるにせよ、共通して言えることは、
キリストがその中心であり土台であり頂点であること、
また教会は見えざる存在であるとともに、キリスト者がこの世に存在する以上、
必然的に見える存在として、姿を現すこと。
しかもこの教会は、時代や地域によって個々に誕生し、
ある一定の時間・空間の特殊性を反映するとはいえ、
一つの教会として認識されねばならないし、事実一つであるということ。
キリストによって義とされた人々が集まるところ、
それを称して教会と呼ぶのだと思う。
そして教会は、「私は世の光です」(ヨハネ伝8-12)と言い給うた方によって、
「あなたがたは世の光です」(マタイ伝5-14)と呼ばれる。
キリスト者が集まりキリストを賛美するところ、
そこに「キリストのからだ」が具現化するのだと思う。
聖書本文からそのことを学んでも、残念ながら今の私にとって教会は、
やはり謎の言葉である。
本当に近しい者にその信仰を語るか、こうしてブログに記事を掲載するぐらいで、
ともに祈る仲間やともに聖句を学ぶ仲間など、いないのだから・・・。
かといって今まで一度も足を踏み入れたことのない教会に行き(結婚式を除いて)、
仲間探しをする気も起きなければ、そういう時間もない。
しかし教会が全キリスト者の集まりや交流を意味し、
主を賛美することにその本質があるのならば、
いつかそういった「からだ」を実感できる時が来るまで、
謎の言葉ではあるが最も秘儀に満ちた言葉として、
聖書の伝える教会に思いを馳せたいと思う。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、
神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、
ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしい御業を、
あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロ書Ⅰ2-9)
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ひとりひとりは各器官なのです。(コリント書Ⅰ12-27)
今まで教会に行ったことのないキリスト者にとって、
「教会」とは一つの謎である。
建物としての教会という意味で、
またはある一定の儀式を強制される宗教団体としての教会サークルという意味で、
私は教会など不必要なものだと考える。
教会を知らない私個人の問題として、教会という言葉は大事なものではなかった。
しかし聖書の中で度々言及されるエクレシア(集まり)を無視して、
聖書の聖句は正しく理解できないと思う。
ルターの言う「集まり」・「教団」・「群れ」、
すなわち、神に義とされた全キリスト者のあり方は、
無視できないどころか、聖書最大の秘儀ではないかと思うのである。
教会はコリント書において、「キリストのからだ」に喩えられている。
キリストが首(かしら)であり、我々はその手足であり、
まるで人間的肉体のような有機的組織に喩えられている。
また教会はヨハネ伝において、「ぶどうの木」に喩えられている。
キリストがその幹であって、我々はその枝であり、
まるで幹から絶えざるエネルギー供給を受ける樹木に喩えられている。
また教会は黙示録において、一種の「円形闘技場」のようなものに喩えられている。
キリストが中央に座し、我々はそれを囲みながら、
キリストの栄光を賛美する群衆に喩えられている。
それら喩えがどういう形をとるにせよ、共通して言えることは、
キリストがその中心であり土台であり頂点であること、
また教会は見えざる存在であるとともに、キリスト者がこの世に存在する以上、
必然的に見える存在として、姿を現すこと。
しかもこの教会は、時代や地域によって個々に誕生し、
ある一定の時間・空間の特殊性を反映するとはいえ、
一つの教会として認識されねばならないし、事実一つであるということ。
キリストによって義とされた人々が集まるところ、
それを称して教会と呼ぶのだと思う。
そして教会は、「私は世の光です」(ヨハネ伝8-12)と言い給うた方によって、
「あなたがたは世の光です」(マタイ伝5-14)と呼ばれる。
キリスト者が集まりキリストを賛美するところ、
そこに「キリストのからだ」が具現化するのだと思う。
聖書本文からそのことを学んでも、残念ながら今の私にとって教会は、
やはり謎の言葉である。
本当に近しい者にその信仰を語るか、こうしてブログに記事を掲載するぐらいで、
ともに祈る仲間やともに聖句を学ぶ仲間など、いないのだから・・・。
かといって今まで一度も足を踏み入れたことのない教会に行き(結婚式を除いて)、
仲間探しをする気も起きなければ、そういう時間もない。
しかし教会が全キリスト者の集まりや交流を意味し、
主を賛美することにその本質があるのならば、
いつかそういった「からだ」を実感できる時が来るまで、
謎の言葉ではあるが最も秘儀に満ちた言葉として、
聖書の伝える教会に思いを馳せたいと思う。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、
神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、
ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしい御業を、
あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロ書Ⅰ2-9)
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宮内さん、
すでにあなたは「キリストの教会」の一員ですよ♪
見えるかたちでの繋がりは、この後必ず主が実現され、主が与えてくださいます。私の場合20年近くかかりましたが。(笑)
1cor 15:45
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
1cor 15:46
最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
1cor 15:47
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
1cor 15:48
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
1cor 15:49
私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。