「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
(マタイ伝27-46、マルコ伝15-34)
どうして神は、神に最後まで従順だったイエスの叫びに対し、
沈黙していたのか?
どうして神は、神を最も愛し、神を最も宣べ伝えた男の嘆きを、
聞き給わなかったのか?
イエスが水から上がられた際、神は祝福されたではないか!?(マタイ伝3-16・17)
イエスがその最期を思った時、神は答えられたではないか!?(マタイ伝17-5)
何故ゆえ、神は、イエスが最も必要とされた時に、
何も答え給わなかったのか?
神は何故、沈黙されていたのか?
神はイエスを見捨てたのか?
それとも、神などというものは人間の空想物で、
本当は神などいないのだろうか?
神なしにはこの世を渡っていけない弱い人間が、
少しでも世を渡りやすくするために作り上げた、
方便の一種なのだろうか?
もしそうならば、イエスほど、憐れな者はない。
もしそうならば、多くの殉教したキリスト者ほど、虚しい者はない。
もし、そうでなく、神が本当にいますのならば、
何故ゆえ神は、イエス初め信仰者の苦難に沈黙し給うのか?
大なる疑問である。
私は神の御心を知らず、イエスの御心も知らぬ。
故に、神が何故、沈黙し給うのか、この鈍重な良心と小さな頭脳ではわからない。
しかし、私はこう信じたい。
神は、敢えて、語り給わなかったのだと。
神は、愛するが故に、語り給わなかったのだと。
言葉が、人の思いを伝えることがある。
しかし、言葉が、人の思いを伝えないことがある。
かえって、沈黙が、最も人の思いを伝えることがある。
敢えて黙っていることが、最大の愛であり、最大の祝福であることがある。
人が然り、神も然り。
神はイエスを愛し給うが故に、イエスの苦しみと死を理解し給うが故に、
最大の賛辞である沈黙によって、答えられたのではなかろうか?
祈っても神からの答えがなく、呻いても神からの慰めなく、
人は人生の修羅場において、神を捨てたく思う時がある。
しかし、神の沈黙は、最大の神の憐憫かもしれぬ。
それを、己の悲劇をもって、神を冷酷非情であると断定してよいのだろうか?
我らの罪を贖い給うた神が、何故ゆえ、我らを冷酷非情に扱うだろうか?
(マタイ伝7-11)
信じることは、知ることに非ず。
知らないからこそ、人は信じるのである。
神がもしすべてを与えた給うたならば、
人は信じる必要がなく、祈る必要もない。
神は沈黙によって、我らの信仰を鍛錬し給い、
より我らを愛し給うのではないのか!?
神が何故、沈黙し給うたのか、私は知らず。誰も知らず。
その時の神を、冷酷非情と見るか、恩恵深き方と見るか、
それは人間の知的能力の問題に非ず。信仰の問題に存する。
私は、恩恵深き神の方に、懸けたいと思う。
「神は愛です」(ヨハネ書Ⅰ4-16)
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(マタイ伝27-46、マルコ伝15-34)
どうして神は、神に最後まで従順だったイエスの叫びに対し、
沈黙していたのか?
どうして神は、神を最も愛し、神を最も宣べ伝えた男の嘆きを、
聞き給わなかったのか?
イエスが水から上がられた際、神は祝福されたではないか!?(マタイ伝3-16・17)
イエスがその最期を思った時、神は答えられたではないか!?(マタイ伝17-5)
何故ゆえ、神は、イエスが最も必要とされた時に、
何も答え給わなかったのか?
神は何故、沈黙されていたのか?
神はイエスを見捨てたのか?
それとも、神などというものは人間の空想物で、
本当は神などいないのだろうか?
神なしにはこの世を渡っていけない弱い人間が、
少しでも世を渡りやすくするために作り上げた、
方便の一種なのだろうか?
もしそうならば、イエスほど、憐れな者はない。
もしそうならば、多くの殉教したキリスト者ほど、虚しい者はない。
もし、そうでなく、神が本当にいますのならば、
何故ゆえ神は、イエス初め信仰者の苦難に沈黙し給うのか?
大なる疑問である。
私は神の御心を知らず、イエスの御心も知らぬ。
故に、神が何故、沈黙し給うのか、この鈍重な良心と小さな頭脳ではわからない。
しかし、私はこう信じたい。
神は、敢えて、語り給わなかったのだと。
神は、愛するが故に、語り給わなかったのだと。
言葉が、人の思いを伝えることがある。
しかし、言葉が、人の思いを伝えないことがある。
かえって、沈黙が、最も人の思いを伝えることがある。
敢えて黙っていることが、最大の愛であり、最大の祝福であることがある。
人が然り、神も然り。
神はイエスを愛し給うが故に、イエスの苦しみと死を理解し給うが故に、
最大の賛辞である沈黙によって、答えられたのではなかろうか?
祈っても神からの答えがなく、呻いても神からの慰めなく、
人は人生の修羅場において、神を捨てたく思う時がある。
しかし、神の沈黙は、最大の神の憐憫かもしれぬ。
それを、己の悲劇をもって、神を冷酷非情であると断定してよいのだろうか?
我らの罪を贖い給うた神が、何故ゆえ、我らを冷酷非情に扱うだろうか?
(マタイ伝7-11)
信じることは、知ることに非ず。
知らないからこそ、人は信じるのである。
神がもしすべてを与えた給うたならば、
人は信じる必要がなく、祈る必要もない。
神は沈黙によって、我らの信仰を鍛錬し給い、
より我らを愛し給うのではないのか!?
神が何故、沈黙し給うたのか、私は知らず。誰も知らず。
その時の神を、冷酷非情と見るか、恩恵深き方と見るか、
それは人間の知的能力の問題に非ず。信仰の問題に存する。
私は、恩恵深き神の方に、懸けたいと思う。
「神は愛です」(ヨハネ書Ⅰ4-16)
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今の地球の出来事を神が沈黙する事が地球の憐憫なのか?
神は宇宙を作りすべての真理を知っている
ならば神は神である事の真理とは?