キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

沈黙

2007-02-28 23:37:55 | 聖書読解
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
(マタイ伝27-46、マルコ伝15-34)



どうして神は、神に最後まで従順だったイエスの叫びに対し、

沈黙していたのか?

どうして神は、神を最も愛し、神を最も宣べ伝えた男の嘆きを、

聞き給わなかったのか?

イエスが水から上がられた際、神は祝福されたではないか!?(マタイ伝3-16・17)

イエスがその最期を思った時、神は答えられたではないか!?(マタイ伝17-5)

何故ゆえ、神は、イエスが最も必要とされた時に、

何も答え給わなかったのか?

神は何故、沈黙されていたのか?


神はイエスを見捨てたのか?

それとも、神などというものは人間の空想物で、

本当は神などいないのだろうか?

神なしにはこの世を渡っていけない弱い人間が、

少しでも世を渡りやすくするために作り上げた、

方便の一種なのだろうか?

もしそうならば、イエスほど、憐れな者はない。

もしそうならば、多くの殉教したキリスト者ほど、虚しい者はない。

もし、そうでなく、神が本当にいますのならば、

何故ゆえ神は、イエス初め信仰者の苦難に沈黙し給うのか?

大なる疑問である。


私は神の御心を知らず、イエスの御心も知らぬ。

故に、神が何故、沈黙し給うのか、この鈍重な良心と小さな頭脳ではわからない。

しかし、私はこう信じたい。

神は、敢えて、語り給わなかったのだと。

神は、愛するが故に、語り給わなかったのだと。

言葉が、人の思いを伝えることがある。

しかし、言葉が、人の思いを伝えないことがある。

かえって、沈黙が、最も人の思いを伝えることがある。

敢えて黙っていることが、最大の愛であり、最大の祝福であることがある。

人が然り、神も然り。

神はイエスを愛し給うが故に、イエスの苦しみと死を理解し給うが故に、

最大の賛辞である沈黙によって、答えられたのではなかろうか?


祈っても神からの答えがなく、呻いても神からの慰めなく、

人は人生の修羅場において、神を捨てたく思う時がある。

しかし、神の沈黙は、最大の神の憐憫かもしれぬ。

それを、己の悲劇をもって、神を冷酷非情であると断定してよいのだろうか?

我らの罪を贖い給うた神が、何故ゆえ、我らを冷酷非情に扱うだろうか?
(マタイ伝7-11)

信じることは、知ることに非ず。

知らないからこそ、人は信じるのである。

神がもしすべてを与えた給うたならば、

人は信じる必要がなく、祈る必要もない。

神は沈黙によって、我らの信仰を鍛錬し給い、

より我らを愛し給うのではないのか!?


神が何故、沈黙し給うたのか、私は知らず。誰も知らず。

その時の神を、冷酷非情と見るか、恩恵深き方と見るか、

それは人間の知的能力の問題に非ず。信仰の問題に存する。

私は、恩恵深き神の方に、懸けたいと思う。



「神は愛です」(ヨハネ書Ⅰ4-16)



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1 コメント

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Unknown (Vlaminck)
2007-03-01 23:13:32
神の沈黙がイエスの憐憫だとするなら
今の地球の出来事を神が沈黙する事が地球の憐憫なのか?

神は宇宙を作りすべての真理を知っている
ならば神は神である事の真理とは?
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