かつて中国哲学の権威・安岡正篤氏は、西洋人と東洋人の思考方法には、
決定的な違いがあると言った。
西洋人はすべて分析的にものを見るが、東洋人はすべて総合的にものを見る、と。
同様のことを、インド哲学の研究者・中村元氏も言及していたと思う。
(中村元「東洋人の思惟方法」)
私もパウロ書簡の原語研究を通して、同様の感想を持たざるをえない。
パウロはユダヤ人である、すなわち東洋人である。
それを、西洋人的な分析知によって読解しようとすると、
内容的に多くの矛盾が出てしまうのである。
我々日本人は東洋人といえども、深く深く西洋文明に感化され、
今や西洋的なものの考え方に慣れている。
しかも、聖書の辞典は、たいていが欧米の研究成果によって成り立っているから、
ここに聖書読解における困難があるのだと思う。
例えば、「教会はキリストの体である」と読むとき、
我々はどうしても、教会を何か有機的な組織体のように考えてしまう。
なぜなら「体」という言葉を読んで、手や足や胴体や頭のある体を連想するから。
しかし体と訳されたソーマ(σωμα)とは、パウロ的な意味においては、
心と体を分けたときの体、精神と肉体を分けたときの肉体を意味しているのではない。
ユダヤ人パウロにとって体とは、自分自身をある出来事の主体として用いるときに出てくる表現である。
(体と精神を区別している様子はない)
すなわち、「教会はキリストの体である」とパウロが言うとき、
それは信者すべてが教会の部分であって、それぞれに価値があると言いたいのではなく、
教会はキリストの恵みを伝える道具として存在し、
信者すべてはキリストなくしては無だ、と言いたいのである。
同様に、パウロが「霊」というとき、
肉体の内に精神があり、精神の内に霊があり、その神から与えられる霊なるものによって、
何か幸福な神秘的体験を得られると言いたいのではない。
(肉体から切り離した精神という発想さえない)
霊と訳されたプネウマ(πυνευμα)とは、死人の復活に向かう人間の生、
キリスト再臨に向かう人間の生、その生の緊張状態において、
キリストのために生きんとする人生の態度のことを言う。
であるから、霊(πυνευμα)という言葉に呼応するように、
歩む(περιπατειν)という言葉が続き、
「キリストのために」「神のために」「愛のために」という人生の目的が続く。
その他、信仰(πιστισ)、命(ζωη)、律法(νομοσ)、世(κοσμοσ)など、
指摘すればきりがないが、聖書の言葉を読む際には、
ユダヤ人たる東洋人の思惟方法によって解釈せねば、
とんでもない結論になることが多々あるのである。
西洋人の祖先であるギリシャ人は、唯一神を認めず、自然界を完全な法則と見るが故に、
空間的にものを考え、複雑な現象を分解し、分析し、それらを寄せ集めて概念をつくる。
しかし東洋人たるユダヤ人は、自然界を超越した神を認め、自然界を神の作品と見るが故に、
常に神に対する人間存在を考える。
この歴史世界を司り、人間の将来を左右し給う神の存在。
この神にあってものを考えるが故に、その思考は時間的であり、
我々現代人に比べて、すべて総合的に、統一的に、現実的にものを見る。
かかるユダヤ人パウロの思考方法を考慮して聖書を読むとき、
聖書がきわめてリアルな、読み手がたじろぐほどリアルな言葉であることを知ることができる。
決定的な違いがあると言った。
西洋人はすべて分析的にものを見るが、東洋人はすべて総合的にものを見る、と。
同様のことを、インド哲学の研究者・中村元氏も言及していたと思う。
(中村元「東洋人の思惟方法」)
私もパウロ書簡の原語研究を通して、同様の感想を持たざるをえない。
パウロはユダヤ人である、すなわち東洋人である。
それを、西洋人的な分析知によって読解しようとすると、
内容的に多くの矛盾が出てしまうのである。
我々日本人は東洋人といえども、深く深く西洋文明に感化され、
今や西洋的なものの考え方に慣れている。
しかも、聖書の辞典は、たいていが欧米の研究成果によって成り立っているから、
ここに聖書読解における困難があるのだと思う。
例えば、「教会はキリストの体である」と読むとき、
我々はどうしても、教会を何か有機的な組織体のように考えてしまう。
なぜなら「体」という言葉を読んで、手や足や胴体や頭のある体を連想するから。
しかし体と訳されたソーマ(σωμα)とは、パウロ的な意味においては、
心と体を分けたときの体、精神と肉体を分けたときの肉体を意味しているのではない。
ユダヤ人パウロにとって体とは、自分自身をある出来事の主体として用いるときに出てくる表現である。
(体と精神を区別している様子はない)
すなわち、「教会はキリストの体である」とパウロが言うとき、
それは信者すべてが教会の部分であって、それぞれに価値があると言いたいのではなく、
教会はキリストの恵みを伝える道具として存在し、
信者すべてはキリストなくしては無だ、と言いたいのである。
同様に、パウロが「霊」というとき、
肉体の内に精神があり、精神の内に霊があり、その神から与えられる霊なるものによって、
何か幸福な神秘的体験を得られると言いたいのではない。
(肉体から切り離した精神という発想さえない)
霊と訳されたプネウマ(πυνευμα)とは、死人の復活に向かう人間の生、
キリスト再臨に向かう人間の生、その生の緊張状態において、
キリストのために生きんとする人生の態度のことを言う。
であるから、霊(πυνευμα)という言葉に呼応するように、
歩む(περιπατειν)という言葉が続き、
「キリストのために」「神のために」「愛のために」という人生の目的が続く。
その他、信仰(πιστισ)、命(ζωη)、律法(νομοσ)、世(κοσμοσ)など、
指摘すればきりがないが、聖書の言葉を読む際には、
ユダヤ人たる東洋人の思惟方法によって解釈せねば、
とんでもない結論になることが多々あるのである。
西洋人の祖先であるギリシャ人は、唯一神を認めず、自然界を完全な法則と見るが故に、
空間的にものを考え、複雑な現象を分解し、分析し、それらを寄せ集めて概念をつくる。
しかし東洋人たるユダヤ人は、自然界を超越した神を認め、自然界を神の作品と見るが故に、
常に神に対する人間存在を考える。
この歴史世界を司り、人間の将来を左右し給う神の存在。
この神にあってものを考えるが故に、その思考は時間的であり、
我々現代人に比べて、すべて総合的に、統一的に、現実的にものを見る。
かかるユダヤ人パウロの思考方法を考慮して聖書を読むとき、
聖書がきわめてリアルな、読み手がたじろぐほどリアルな言葉であることを知ることができる。
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