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江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

龍眼寺

2015-09-05 | まち歩き

東京スカイツリーの真下を流れる川を北十間川といい、亀戸天神の脇を流れる川を横十間川といいます。そして、二つの川が交わるところには、歌川広重の名所江戸百景「柳しま」にも描かれている柳島妙見堂柳島橋があります。龍眼寺(りゅうげんじ)は柳島橋から横十間川の東岸沿いに250メートルほど南に行ったところにあるお寺で、長い塀と門越しに見える木々に先ずは心惹かれます。

御本尊の聖観世音菩薩は、応永二年(1396年)の作(作者不詳)。この寺を開山した良博大和尚が比叡山での修行を終えて帰国の途中、柳島の辻堂に一泊したところ、その夜に観世音菩薩が夢枕に現れ、「観世音菩薩がこの床下にある」とのお告げを授かったとのこと。良博大和尚が至心に祈願したところ、村に流行していた疫病がたちまち平癒したことから、村人の願いにより、その観世音菩薩を本尊として「柳源寺(りゅうげんじ)」を建立しました。その後、寺の湧き水で洗顔すると目が良くなる眼病平癒の観世音として信仰を集め、「龍眼寺」(時代不明)と改められました。

龍眼寺は、別名を萩寺といいます。これは、江戸初期に住職が百種類もの萩を諸国から集めて植えたためで、本所絵図(文久三年/1863年)には、「龍眼寺」の文字の隣に、「萩寺ト云」と書き添えられています。また、江戸名所図会にも、萩を観る人々で賑わう様子が描かれています。現在も萩が植えられており、秋のお彼岸の頃が見頃です。

龍眼寺は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)の表題作「隠れ蓑」の中に登場しています。北町奉行所の定町廻り同心・朽木勘三郎と小池文造は、若き日には同じ道場に通う仲であったものの、ある事件を切っ掛けに小池は道場を破門となり、勘三郎に恨みを抱えたまま逐電。その小池が八年ぶりに両国で目撃されたため、勘三郎の周りでは緊張感が高まります。一方、小池は勘三郎が追っている事件とも関わりがある様子。勘三郎は小池の行方を探し、そして小池が萩寺と呼ばれる龍眼寺に潜伏していることをつかみます。

 

[1] 参考:龍眼寺ホームページ及び境内に設置の御由緒書き

 

龍眼寺 東京都江東区亀戸3-34-2
京成線・都営浅草線・東京メトロ半蔵門線押上駅から約1.1km 徒歩約14分

 


三井越後屋呉服店

2015-08-29 | まち歩き

時代劇の中で、悪代官と悪徳商人が密会し、
「越後屋、お主も悪よのう。ハハハ。」
「そう言うお代官様こそ。フフフ。」
と言葉を交わす。いかにも在りそうな悪役設定です。実際に、こんな会話が交わされた時代劇が在ったのかどうかは定かではありませんが、少なくともお笑いの時代劇ネタでは定番のギャグであり、越後屋と言えば、誰もが思い浮かべる悪役です。しかし、それは時代劇やお笑いの中だけの話であり、江戸日本橋に在った越後屋は、現在の日本橋三越だと聞けば、誰もがイメージとのギャップに驚かれるのではないかと思います。

三井家の家祖・三井高利が三井越後屋呉服店を開いたのは延宝元年(1673年)のことで、当時のお店は現在の日本銀行付近に在りました。現在の日本橋三越本館の在る場所に呉服店が移ったのは天和三年(1683年)のことで、その隣には両替店が新設されました。この両替店は、道を挟んで三越と隣り合う、現在の三井住友銀行日本橋支店です。その様子は葛飾北斎の富嶽三十六景「江都駿河町三井見世略図」や歌川広重の名所江戸百景「駿河町」などに描かれており、呉服店と両替店の位置関係は、現在の三越と三井住友銀行の位置関係そのままです。三越の名は、三井の三と越後屋の越からとったもので、明治37年(1904年)に三井呉服店を三越呉服店に改組し、日本初の百貨店になってからのものです。

三井越後屋呉服店は、時代小説の中では、葉室麟著「乾山晩秋」(乾山晩秋に収録、角川書店)に登場しています(作品中では「三井呉服店」)。絵師・尾形光琳の弟、尾形深省は、思い掛けず兄と縁のあった女・ちえとその子・与市を世話することになります。勤勉な商人に成長した与市が反物を納めにいった先が三井呉服店で、三井の主人に気に入られた与市は三井の店に入ることになります。

また、葉室麟著「潮鳴り」(詳伝社)に登場する俳諧師の咲庵は、もとは江戸の呉服問屋、三井越後屋の大番頭を務めた人という設定です。咲庵は、俳諧師になるために身勝手に店を辞め、家族を不幸にした過去を深く後悔しています。一方、主人公の伊吹櫂蔵もまた、自らの失態の末に家督を譲った弟が切腹して果てるまで弟を顧みようともしなかったことを深く悔やんでいます。櫂蔵は弟の無念を晴らすために再び出仕することを決め、商人の世界を知る咲庵に助けを求めます。咲庵はその申し入れを一度は断るものの、昔の力を振るうことが家族への罪滅ぼしになると櫂蔵に説得され、申し入れを受け入れます。

 

※今回の記事は、2014年7月5日の記事に加筆したものです。 

 

[1] 参考:三井公報委員会ホームページ
[2] 三井ゆかりの神社:三囲神社

 

日本橋三越 東京都中央区日本橋室町1-4-1
東京メトロ銀座線・半蔵門線 三越前駅直結 

 

 


長徳寺

2015-08-22 | まち歩き

越後新発田藩の長徳寺については、2013年8月31日に当ブログで取り上げました。
今回の記事は、その時の記事に加筆したものです。

長徳寺は、越後新発田三ノ町(現新潟県新発田市大栄町)に在るお寺で、以前に御紹介した周円寺とは程近い位置関係にあります。創建は天正十三年(1585年)。新発田出身の赤穂浪士・堀部安兵衛の生家・中山家の菩提寺で、地元では、安兵衛が植えたとされる松が在るお寺として広く知られています。

現在の安兵衛手植えの松は二代目の松です。初代の松は、樹齢約300歳の大木で、幹には大きな洞(うろ)が在りました。小さな子供には、立派な枝振りよりも、何か出てきそうな、その洞の方が気になったものです。平成九年(1997年)に、老齢により惜しくも伐採されてしまいましたが、その実生から、現在の二代目の松が育てられました。

毎年8月13日には、ここ長徳寺でもお盆のお墓参りの日を迎えます。城下町新発田のお墓参りは他とはちょっと変わっていて、早朝に墓掃除を済ませ、日が落ちて暗くなってからお墓参りをします。地元では、それが当たり前なので、進学や就職、結婚等で新発田を離れて、初めて他とは違うということに気付く新発田っ子も多いようです。夜のお墓参りには、ぼんぼりを持参して、それをお墓の前に立てて、蝋燭を灯します。小さな子供の中には浴衣を着て、子供用の提灯を片手にお墓参りをする子もいます。お墓参りの静寂な雰囲気と線香の香りの中で灯る沢山のぼんぼりや提灯は美しいもので、故郷自慢になる風習の一つだと思われるのですが、地元の人にとっては、毎年の恒例行事なので、あらためて「幻想的だなぁ」と浸ることはありません。

最近は、少子高齢化のせいか、朝の墓掃除も夜の墓参りも昔ほどの賑わいはないように感じられます。昔は墓掃除に使う水を汲むのにも苦労するほど人が多かったですし、父親や祖父らに連れられて墓掃除に来る子供も多く見られました。夜の墓参りも、今よりも沢山のぼんぼりが灯っていましたし、お寺の鐘をつくには、長い列に並ばなければなりませんでした。今は水も楽に汲めますし、鐘もつき放題。待つ必要は無くなりましたが、反面、寂しさも感じます。

墓参りの後には、下町の新明宮隣のスギサキでかき氷を食べるのが定番だったりもします。スギサキは新発田では有名なかき氷屋さんで、お墓参りの日は、特別に夜間営業をしています。御先祖様も食べた新発田の味。御先祖様を家に連れ帰る前に寄り道をしたとしても、御先祖様に叱られることはないでしょう。

長徳寺は、池波正太郎著、堀部安兵衛(上)(新潮社)の中に登場し、主人公の安兵衛は、長徳寺の和尚から読書と習字の教えを受けるのが日課となっています。

 

長徳寺 新潟県新発田市大栄町2‐7‐22
JR羽越線・白新線新発田駅から約1.3km 徒歩約17分

 

右側の囲いの中に立つ松が二代目安兵衛手植えの松

 

8月13日の晩にお墓に灯されるぼんぼり

 

8月13日の晩の長徳寺。右側のシルエットが二代目安兵衛手植えの松。


本法寺

2015-08-01 | まち歩き

本法寺は、東京都墨田区に在るお寺です。文禄四年(1595年)に日慶により神田の地に創建され、慶安二年(1649年)に谷中に移転し、元禄二年(1689年)に本所の現在地に移り今に至ります[1]。古地図[2]には、霊山寺を挟んで、鬼平犯科帳シリーズ(池波正太郎著、文藝春秋)に度々登場する法恩寺の2軒北隣に描かれています。現在は、都心の寺社の多くがそうであるように、本法寺も江戸の頃と比べれば境内は狭まり、周りを住宅に囲まれるようになっています。しかし、法恩寺、霊山寺、本法寺の位置関係は江戸の頃とさほど変わらず、ほぼ同じままです。本法寺の墓所には、室町時代の絵師で、狩野派の二代目である狩野元信の墓が在ります。

本法寺は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)収録の「木兎引き(ずくひき)」の中に登場しています。北町奉行所の定町廻り同心・朽木勘三郎は、知人に誘われて出掛けた先で、見慣れぬ鳥を捕まえます。将軍家に仕え、鷹狩の餌にするための小鳥を捕らえる者でさえ見たことのない鳥。勘三郎は、本法寺とは横川を挟んで西側に屋敷を構える旗本が、半年ほど前に鳥屋からその鳥を買ったことを突き止めます。

 

[1] 墨田区教育委員会設置看板、平成16年3月
[2] 本所絵図、文久三年(1863年)

 

本法寺 東京都墨田区横川1-12-12
東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅から約900m 徒歩約12分

 


松島稲荷

2015-07-18 | まち歩き

松島稲荷(現松島神社)は、日本橋人形町に在る神社です。日本橋七福神の一社で、やはり日本橋七福神の一社である水天宮からは目と鼻の先に在ります[1]。水天宮は安産祈願の神社として広く知られ、戌の日には特に多くの参拝客で賑わう神社ですが、この地に建立されたのは、明治五年(1872年)のことで、歴史的には割合に最近になって建てられた神社と言えます。一方の松島神社は、ビルの1階に社殿を構え、見掛けこそ都会の神社の様相を呈していますが、口伝では鎌倉時代の元亨(1321年)以前に創立されたと推定される古い神社です。松島の名は、かつてこの辺りが入り海であった頃に、松の樹が鬱蒼と茂る小島が在り、そこに諸神を勧進して崇拝したことから、人々が松島稲荷大明神と唱えるようになったと伝えられています。

松島稲荷は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)収録の「門前捕り」の中に登場しています。主人公の定町廻り同心・朽木勘三郎と組む、岡っ引きの伸六は、他の岡っ引きに先んじて、事件が起こった旗本屋敷で証言を取り付けることに成功します。後日、お礼の品の酒を携えて再びその旗本屋敷を訪ねると、遅れを取った岡っ引きら十人近くが、俺達にも話を聞かせろと門番に詰め寄る騒ぎに。見かねた伸六は、静かに話せる所で、「知ってることはなにもかも話すことにしやしょう」と、岡っ引きらを松島稲荷に連れて行きます。

 

[1] 水天宮は改築工事中で、現在は明治座の隣、日本橋浜町に仮宮が在ります。

 

松島稲荷(松島神社) 中央区日本橋人形町2-15-2
東京メトロ半蔵門線水天宮駅から約150m 徒歩約2分

 


小川橋

2015-07-04 | まち歩き

明治座から南西に150メートルほど行ったところに、浜町緑道という細長い公園が在ります。ここは、かつて浜町堀と呼ばれた水路が流れていたところです。小川橋は、浜町堀に架けられていた橋の一つで、現在の久松警察署のそばに在りました。

小川橋は、小川橋と呼ばれる以前には、難波橋の名が付けられていました。尾張屋版切絵図「日本橋北内神田両国濱町明細絵図(安政六年/1859年再版)」[1]には、小川橋と記されていますが、この切絵図の初版「神田濱町日本橋北之図(嘉永三年/1850年)」[2]には、難波橋と記されています。従って、この9年間の間に、橋の名が難波橋から小川橋に変わったと考えられます。

難波橋の名は、橋の西側に隣接していた難波町にちなむものでしょう。一方の小川橋の名の由来については、小川橋跡に立つ石碑[3]に、次のようなことが記されています。

「明治十九年(1886年)にピストル強盗事件が発生し、久松警察署の小川佗吉郎巡査が重傷を負いながら犯人・清水定吉を捕らえた。小川巡査はこの功により二階級特進し、警部補に任命されたが、当時の傷がもとで明治二十一年(1888年)にこの世を去った。東京府民は小川警部補の尊い死を惜しみ、この橋を小川橋と名付け不滅の功績を讃えた」

しかし、小川橋は、遅くとも安政六年には小川橋と名付けられていたことが地図の上からは明らかです。小川警部補が亡くなったのは明治二十一年ですから、小川警部補の死を惜しみ、小川橋と名付けたとする説とは少なくとも29年の開きがあります。では、なぜこの差が生じたのでしょうか。小川警部補という人が実在したのかさえも、疑わしく思われます。

しかし、幸いなことに、小川警部補については、記録が残されていました。日本警察彰功録(下巻)[4]には、およそ以下のようなことが記されています。

「小川佗吉郎は、加賀藩士の子で、明治十七年(1884年)に警視庁の巡査となり、久松警察署に在籍していた。明治十九年十二月三日の明け方に通報があり、その者が言うには、日本橋区馬喰町二丁目の書肆(書店?)石川スズの家で短銃強盗事件が発生したとのこと。佗吉郎は直ちに犯人を捕らえようとして、橘町を過ぎようとしたとき、一人の男に遭遇し、「何者か」とたずねると、男は瞽師(按摩?)であり、回診中と答えた。しかし、挙動には疑うところがあり、男は懐に隠し持っていた短刀を抜いて、佗吉郎に襲いかかった。佗吉郎は退かず、素手で立ち向かったが、腹と背に傷を負った。男は銃を発砲して逃げたが、佗吉郎はこれを追い、両国橋の川岸で、ついに男を捕らえた。男は石川スズの家を襲った犯人で、名を清水定吉といい、十数年来、短銃強盗を繰り返していた凶悪犯であった。東京の人々は戦々恐々と過ごしていたが、この逮捕により、ようやく安心することができた。佗吉郎は、この功績により、直ちに警部補に昇進。しかし負った傷は重く、わずかに癒えたものの、明治二十一年四月二十六日に帰らぬ人となった。」

小川橋は小川佗吉郎が警察官になる以前から小川橋と呼ばれていたものの、たまたま小川佗吉郎と名が同じであったことから、小川警部補の橋として知られることになり、後年、「小川巡査の死を惜しんで名付けられた橋」と人々に信じられるようになったというのが、真相ではないかと思われます。難波橋が小川橋に変わった理由は、はっきりしません。しかし、もしも小川橋が、難波橋のままだったならば、小川警部補の功績は歴史の中に埋もれてしまっていたことでしょう。小川橋の名が付いたからこそ、今の世に小川警部補を知る人がいる。小さいけれど、ドラマチックな物語です。

小川橋は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)収録の「門前捕り」の中に登場しています。浜町掘には、大川(隅田川)側から川口橋、組合橋、小川橋、高砂橋、栄橋、千鳥橋と橋が架かり、旗本須藤内蔵助の屋敷は、浜町掘下流の西の一角に在ります。北町奉行所同心の名倉健介は、須藤屋敷に忍び込んで捕らえられた泥棒を引き取るために、須藤屋敷を訪ねます。

 

[1] 国際日本文化研究センター蔵
[2] 国立国会図書館デジタルコレクション
[3] 昭和四十九年四月二十六日建立、警視庁創立100年記念、久松警察署創設100年記念、久松協力会建立、地元各連合町会協賛
[4] 日本警察彰功録(下巻)、吉原直次郎著、明治24年10月19日、国立国会図書館デジタルコレクション

 

小川橋跡 東京都中央区日本橋久松町1-1
東京メトロ日比谷線・都営浅草線人形町駅から約350m 徒歩約5分
都営新宿線浜町駅から約450m 徒歩約6分

 

小川橋の由来を記した石碑


北中之橋

2015-06-20 | まち歩き

墨田区の江戸東京博物館を背にして、北斎通りを錦糸町方面に進むと、途中で大横川親水公園という、南北に細長い公園を横切ります。ここには、かつて大横川という水路が流れており、その水路を埋め立てて造成したのが現在の大横川親水公園です。

北中之橋は、北斎通りが大横川を渡るところに架けられていた橋で、後に長崎橋と呼ばれるようになりました。この地にある長崎橋の説明板には、架橋年は元禄十年(1697年)で、橋の名は、当時西側に隣接した、本所長崎町の地名にちなむとあります。試しに古い地図を調べてみると、橋の名は、尾張屋版江戸切絵図「本所絵図(文久三年/1863年)」には「北中之橋」と記され、「明治東京全図(明治九年/1876年)」[1]には「長崎橋」と記されています。明治期の他の地図にも、「長嵜橋」や「長サキバシ」とありますので、橋の名が北中之橋から長崎橋に変わったのは、幕末か明治の初めであったと考えらえます。

北中之橋が登場する時代小説には、鬼平犯科帳シリーズ(十八)(池波正太郎著、文藝春秋)に収録されている「馴馬の三蔵」があります。ある日、長谷川平蔵は、知人に案内されて、橋場の料理屋「万亀」を訪れます。そこで偶然、密偵の小房の粂八を目にしますが、いつもとは様子が異なり、いぶかしく思います。平蔵は北中之橋の舟着きまで知人を舟に乗せ、送りとどけた後、粂八を訪ねる決意を固めます。

 

 北中之橋が登場するその他の作品

  • 池波正太郎著、「殺しの四人」(殺しの四人に収録、講談社)

 

 [1] 国立公文書館 デジタルアーカイブ

 

北中之橋(長崎橋)跡 東京都墨田区亀沢4-5-9
JR・東京メトロ半蔵門線錦糸町駅から約700m 徒歩約9分

 

 

北中之橋のあった場所。画面手前から奥の細長い公園がかつての大横川である大横川親水公園。

 

長崎橋をしのぶモニュメント

 

 

 


猿江稲荷

2015-06-06 | まち歩き

東京都江東区猿江に在る猿江神社は、江戸の頃には猿江稲荷と呼ばれた神社です。地下鉄・住吉駅を起点とすると、南に進んで小名木川とぶつかったところが五本松。そこまで行かずに、やや手前を西へ曲がり、少し行ったところが猿江神社。猿江神社を更に西に進み、大横川に架かる橋が猿江橋。猿江橋から大横川沿いに南に進み、小名木川と交わるところが川舟番所(猿江船改番所跡)です。比較的狭いエリアに、時代小説の舞台が固まって存在しています。

猿江神社は、江戸の頃には別当寺である妙寿寺と同居していました。近江屋版切絵図「南本所堅川辺之地図(嘉永四年/1851年)」で、妙寿寺の脇に記されている「稲荷」が、現在の猿江神社です。別当寺というのは、神社と共に置かれたお寺のことで、現代人にとっては、宗教を異にする神様と仏様が同居しているのは何となく違和感があるかもしれませんが、江戸の頃には、多くの神社とお寺が敷地を同じくしていました。神社なのか、お寺なのかを明確に線引きするようになったのは、侍の時代が終わり、明治政府が法律でそれを定めてからです[1]

猿江神社と妙寿寺の場合も御多分に洩れず、明治時代になると、隣同士は変わらなかったものの、それぞれが独立します。そして、猿江神社は今も猿江の地に在り、一方の妙寿寺は、関東大震災で被災した後は、世田谷区北烏山に移転して現在に至ります。しかし、猿江神社の道を挟んで北隣には、今も妙寿寺が所有する土地が在り、そこには妙寿寺が管理する、猿江稲荷という小さな稲荷社が存在しています。かつて妙寿寺が別当を務め、猿江稲荷と呼ばれた猿江神社と、猿江神社と道を挟んで隣り合う、今も妙寿寺が管理する猿江稲荷。二つの猿江稲荷が話をややこしくするのですが、長い歴史の中には、色々あったということなのでしょう。

猿江神社(猿江稲荷)は、藤沢周平著「闇の歯車」(講談社)の中で登場しており、主人公で、やくざ者の佐之助は、仕事を分けてもらうために、猿江神社近くに住む奥村という裏の世界の男を訪ねます。佐之助は、冒頭に記した道順とは逆に、先ず猿江橋を渡り、川舟御番所を横目に見て、横川(大横川)沿いに歩いた後に東に曲がり、重願寺と妙寿寺が並ぶ通りを歩き、妙寿寺の塀をぐるりと曲がり、猿江稲荷の左手奥に在る奥村の家に着きます。奥村の家へは、表側の五本松の方からも入れるのですが、佐之助はこちらの道は使わずに、常に裏側から入って行きます。

 

[1] 神仏習合については、茅場町薬師堂をご覧下さい。

 

猿江神社(猿江稲荷) 東京都江東区猿江2-2-17
東京メトロ・都営地下鉄住吉駅から約550m 徒歩約7分

 

 

かつて妙寿寺が別当を務め、猿江稲荷と呼ばれた猿江神社

 

今も妙寿寺が管理する猿江稲荷


川船番所

2015-05-23 | まち歩き

外国と商品を輸出入することを貿易と言います。そして、港や空港で外国から入ってくる貨物や日本から出ていく貨物を取り締まり、関税等の税金の賦課徴収を行うのが税関です。

江戸時代には、この税関と良く似た、番所という見張り所が交通の要所に設けられていました。その一つが、小名木川と大横川が交差するところの猿江側に設けられた猿江船改番所です。小名木川は江戸へ物資を輸送する重要な交通路であったため、猿江船改番所は、ここを航行する川船を取り締まり、年貢を徴収したり、川船に打たれた極印の検査を行ったりしていました。

尾張屋版切絵図「本所深川絵図(文久二年/1862年)」で、猿江橋(猿エハシ)のそばに描かれている、「舟番所」が猿江船改番所で、近江屋版切絵図「南本所堅川辺之地図(嘉永四年/1851年)」には、「川船・・・」と記されています。「・・・」の部分は、御役所と書かれているようですが、かなり読みづらく、はっきりしません。

藤沢周平著「恐喝」(雪あかりに収録、講談社)には、この猿江船改番所が、「川船番所」として登場しています。作品に書かれた町並みからは、藤沢先生は、おそらく近江屋版切絵図を傍らに置いて、作品を執筆されたように想像されます。ならば、なぜ「川船御役所」ではなく、「川船番所」と書いたのかですが、もしかすると、藤沢先生も「・・・」の部分を読むことが出来なかったのかもしれません。巨匠に対して、はなはだ失礼ながらも、「やはり、読めないか」と妙な親近感が湧いてきます。

 

川船番所が登場するその他の作品

  •  藤沢周平著「闇の歯車」(講談社)(作品中では、「川舟御番所」)

 

猿江船改番所跡 東京都江東区猿江1-1付近
都営新宿線菊川駅から約750m 徒歩約10分

 

猿江船改番所跡の風景

 

猿江船改番所跡案内板(新扇橋北詰)


小名木川五本松

2015-05-09 | まち歩き

歌川広重の名所江戸百景の一枚に、「小奈木川五本まつ」という作品が在ります。小名木川と小名木川に大きく枝を張り出した松、そして小名木川を行く川船を描いた浮世絵です。この松は、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の松で、現在の位置関係で言うと、地下鉄住吉駅近くの小名木川橋北詰付近に生えていました。残念ながら浮世絵に描かれた松は、今は無く、現在はこの地に五本松を伝える石碑と近年に植えられた若い松が立っています。

元々はその名の通り松は5本在り、尾張屋版江戸切絵図「本所深川絵図(文久二年/1862年)」にも、「五本松」の文字が記されています。しかし、江戸名所図会(天保七年/1836年出版)によれば、既にその当時には、5本のうち4本は枯れ、松は1本しか残っていなかったそうです。江戸名所百景(安政三年/1856年~安政五年/1858年)の松は、「五本まつ」と名は付けられていますが、この残った1本が描かれたものです。

松尾芭蕉とも縁があり、芭蕉は、元禄六年(1693年)の秋に、この五本松の地で、「川上とこの川下や月の友」という句を残しています。この句が詠まれたのは、江戸名所図会の出版より143年も前ですから、もしかすると、この頃には、松は5本在ったかもしれません。

藤沢周平著「恐喝」(雪あかりに収録、講談社)は、この五本松が登場する小説です。主人公の竹二郎は、賭場に出入りするやくざ者で、仲間の鍬蔵と老舗の太物屋の若旦那・保太郎を脅します。竹二郎と鍬蔵が保太郎を連れ出したのは小名木川の川べりで、行く手には、五本松の巨大な枝の広がりが道にかぶさっていました。
この作品が江戸時代のいつ頃を書いたものなのかは、はっきりしません。しかし、作品に記された町並みからは、近江屋版切絵図「南本所堅川辺之地図(嘉永四年/1851年)」が出版された頃のように推測されます。そうすると、作品に記された五本松は、5本の松ではなく、「五本松」の名が付いた1本の松であったと考えられます。その一方で、近江屋版切絵図「本所猿江亀戸村辺絵図(嘉永四年/1851年)」には、五本松の位置に、「三本松」の文字と、三本の松の絵が描かれており、五本松は3本の松だったという説もあり得るかもしれません。

 

五本松石碑(小名木川橋北詰) 東京都江東区猿江2-16-5
東京メトロ・都営地下鉄住吉駅から約500m 徒歩約7分