江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

待乳山聖天

2012-05-26 | まち歩き

待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、大聖歓喜天(聖天様)を御本尊とする寺院です。浅草寺の子院の一つで、待乳山本龍院が正式な名称です。山谷堀に架かっていた旧今戸橋の少し南に位置し、隅田川沿いの低地には珍しい小高い丘の上に建っています。高い建物が珍しく無くなった現代においては、ここが丘であることを見落としてしまいそうですが、江戸の頃には、柳橋辺りから猪牙船を仕立てて吉原へ遊びに行くときには、隅田川から山谷堀へ入る少し手前で、高台にある、この待乳山聖天の建物が良く見えたことだろうと思います。標高は10メートルにも満たない丘で、高さは隅田川の対岸に先日オープンした東京スカイツリーに遥かに及びません。しかし高い建物が無かった江戸時代には、人々はここからの眺めを大いに楽しんだとのことです。


境内に一歩足を踏み入れると、各所に配された大根と巾着の意匠に気付きます。これらは祈願することによって得られる御利益を端的に表したもので、大根は体を丈夫にして頂き、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功得を表し、巾着は財宝で商売繁盛を表しています[1]。聖天様にお供えするための大根が売店で販売されていますが、時にはお供えしてあった大根をお下がりで頂戴する幸運に恵まれることもあります。お庭も立派なので、お参りのついでに是非御覧頂きたいと思います。


作家・池波正太郎先生の生家は、待乳山聖天のすぐ南に在りました。生家は先生が生まれた年の9月に関東大震災が起こり消失してしまいますが、先生は少年期・青年期を通して台東区で暮らし、エッセイの中では、「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しているそうです[2]。先生の作品の中では、「秘密」(剣客商売(九)に収録、新潮社)の中に待乳山聖天(作品の中では「真土山の聖天宮」)は登場しています。


待乳山聖天が登場するその他の作品

  • 池波正太郎著「妖盗葵小僧」(鬼平犯科帳(二)に収録、文藝春秋)
  • 池波正太郎著「五年目の客」(鬼平犯科帳(四)に収録、文藝春秋)
  • 池波正太郎著「密告」(鬼平犯科帳(十一)に収録、文藝春秋)

[1] 参考:待乳山聖天ホームページ
[2] 参考:待乳山聖天公園内石碑、平成19年11月、台東区


待乳山聖天 東京都台東区浅草7-4-1

東京メトロ銀座線・都営浅草線 浅草駅より約850m 徒歩約11分


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各所に配された大根と巾着の意匠


今戸八幡

2012-05-19 | まち歩き

今戸八幡は山谷堀に架かっていた旧今戸橋のやや北に在る神社で、現在の名称は今戸神社です。縁結びの神様として広く知られ、この恋愛パワースポットには、良縁を求めて訪れる若い女性や、年頃の息子・娘を持っているであろう夫婦の姿が数多く見られます。


今戸神社の絵馬は、丸い形をしており、赤い紐の絵で縁取りがされています。円(縁)を結び、角を立てないために、丸い形になっているのだそうです。良縁への願いを記した沢山の絵馬は、未だ良縁に恵まれない人には励みとなり、既に良縁に恵まれた人にとっては若かりし頃の自分を思い出させてくれるものです。中には「年収〇千万円以上の人と、すてきな結婚ができますように!」のような都合が良過ぎるお願いもありますが、そんなものも含めて、目には微笑ましく映ります。


絵馬の反対の面には、馬の変わりに、二匹の招き猫が描かれていて、本殿のお賽銭箱の脇にも大きな招き猫が二体在ります。これは今戸神社が招き猫発祥の地[1]であるためです。今、世界では、ハローキティとドラえもんという日本生まれの二匹の猫が大活躍していますが、江戸の昔に既に招き猫という猫のキャラクターグッズが誕生していたということは、偶然にせよ興味深いことです。


時代小説の中では、池波正太郎著「仁三郎の顔」(剣客商売(八)に収録、新潮社)の中で、今戸八幡前に、四谷の弥七が過去に使っていた密偵の佐平が隠居後に構えた茶店が在るという設定で登場しています。


[1] 招き猫発祥の地には諸説あり、どの説が正しいかは明確になっていませんが、今戸神社の場合は、かつて周辺が今戸焼の産地で、土人形を作っていたことから、発祥の地の一つに数えられています。


今戸八幡(今戸神社) 東京都台東区今戸1-5-22

東京メトロ銀座線・都営浅草線 浅草駅から約1.1km 徒歩約14分


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今戸橋

2012-05-12 | まち歩き

今戸橋は山谷堀の最も下流、隅田川と山谷堀が合流するところに架かっていた橋です。山谷堀が埋め立てられた現在は親柱だけが残されています。

橋の名前は元禄時代の古地図[1]には既に「今戸ハシ」との記載があり、この辺りの地名が今戸であったことから、地名にちなむものと考えてほぼ間違い無いと思われます。

江戸時代には、今戸を中心とする隅田川周辺は「今戸焼」と呼ばれる日用雑器、茶道具、土人形、火鉢、植木鉢、瓦などの焼き物の産地でした。しかし今戸焼は江戸時代後期を全盛に、明治大正期に入ると急激に衰退し、現在ではわずかに土人形のような工芸品だけがその伝統を受け継いでいるのみとなっています。


今戸橋は、池波正太郎著「徳どん、逃げろ」(剣客商売(七)に収録、新潮社)の中で、盗人に間違われた下っ引の徳次郎が、気の良い盗人の八郎吾に、山谷堀に近い料亭に誘われる場面で登場しています。また、「山谷堀は、石神井用水、根岸川の末流であって、今戸橋からすぐに大川(隅田川)へながれこんでいるのだ。」と紹介されています。


今戸橋が登場するその他の作品

  • 池波正太郎著「五年目の客」(鬼平犯科帳(四)に収録、文藝春秋)

[1]元禄江戸図、元禄六年(1693年)/古地図史料出版(株)復刻地図


今戸橋跡 東京都台東区浅草7-4

東京メトロ銀座線・都営浅草線 浅草駅から約900m 徒歩約12分


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紙洗橋

2012-05-05 | まち歩き

紙洗橋は山谷堀に架けられていた橋で、山谷堀が埋め立てられた現在は親柱だけが残されています。


橋の名前は、周辺で「浅草紙」と呼ばれる紙を漉いていたことに由来します。この浅草紙というのは、古紙を漉き返したいわゆる再生紙のことで、紙質は墨が取り除かれないために鼠色で、漉き方も雑な下等な紙でしたが、安価であったために江戸の庶民には親しまれ、鼻紙や落とし紙として常用されたとのことです。現代風に言えば鼻紙はティッシュペーパー、落とし紙はトイレットペーパーのことです。


浅草紙の大まかな製造方法は、細かくした古紙を煮て溶かし、それを冷やして洗い、叩いて砕き、それを漉くというものです。この工程で、煮た古紙を冷ます作業を「冷やかし」と呼んでいましたが、その待ち時間に職人が近くの吉原を見物しに行ったことから、転じて、買う気が無いのに見るだけの行為を「冷やかし」と呼ぶようになったと言われています。「冷やかし」と聞くと、普通はウインドウショッピングか人をからかうような場合に使うと考えますが、広辞苑(岩波書店)には、「張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと」という意味もしっかり載っており感心させられます。


時代小説の中では、紙洗橋は、藤沢周平著「天保悪党伝(闇のつぶて)」の中で、吉原の遊女・三千歳と会っていた金子市之丞が、吉原の廓の外に出た後に、山谷堀の土手を歩く場面で登場しています。


紙洗橋 東京都台東区東浅草1-4-6

東京メトロ銀座線・都営浅草線 浅草駅から約1.3km 徒歩約17分


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