江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

亀島橋

2012-08-25 | まち歩き

隅田川西岸の日本橋川とその支流の亀島川に囲まれた島のような部分(現在の東京都中央区新川付近)を、かつては霊岸島と呼びました。日本橋川と亀島川は人工的に掘削された川で、霊岸島も人口的に埋め立てられて造成された土地です。

多くの掘割が埋め立てられて消滅した現代においてなお、長崎の出島のような地形が江戸時代とさほど変わらぬ姿で現代に残っており、そういう点では、霊岸島は、もっと評価されても良いはずなのですが、生憎、古い街並みも残っていなければ、出島ほどにインパクトのある歴史的事実も無かったというわけで、残念ながら普通の人には見向きもされていません。重機など無かった時代の造成だけに、当時は蒟蒻のように地盤が軟弱で、別名「こんにゃく島」とも呼ばれていたそうです。


亀島橋は、そんな霊岸島に渡る橋の一つで、架橋は元禄十二年(1699年)頃と考えられています。「亀島」の名前の由来は、昔、瓶を売る者が多くいたからという説と、かつて亀に似た小島が在ったからという説があります。


亀島橋は、池波正太郎著「老の鶯」(剣客商売(十)に収録、新潮社)の中で、「松平越中守様・御上屋敷の、すぐ近く」の橋として紹介されています。


亀島橋が登場するその他の作品

  • 藤沢周平著「凶刃 用心棒日月抄」、新潮社

亀島橋 東京都中央区八丁堀1-14-7

東京メトロ日比谷線 八丁堀駅より約120m 徒歩約2分


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湊橋

2012-08-18 | まち歩き

湊橋は日本橋川に架かる橋で、前回御紹介した豊海橋よりも一つ上流に在ります。
日本橋川と日本橋川から分岐する亀島川に囲まれた島のような部分(現在の東京都中央区新川付近)を、かつては霊岸島と呼び、湊橋は、この霊岸島と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝七年(1679年)に架けられました。現代のように自動車による輸送が無かった時代には、様々な物資は水運により運ばれ、この辺りは水路交通の要所として栄えていました。湊橋の名前は、江戸湊の出入口にあったことに由来するものです。


現在の橋は、豊海橋とほぼ同時期の昭和三年(1928年)に架けられた三連の鉄筋コンクリートアーチ橋です。見た目にはずっと新しい橋のように見えますが、これは平成元年(1989年)の整備事業で化粧タイルによる装飾が施されたためです。


湊橋は、池波正太郎著「消えた女」(剣客商売(十三)に収録、新潮社)の中で登場しています。作品では、永代橋を西に渡りきり、しばらく行った先の「左側」に湊橋が在るように書かれていますが、これは隅田川に架かる永代橋が江戸時代には現在地よりも上流に架けられていたためで、現在の位置関係では、永代橋を西に渡り、しばらく行った先の「右側」に湊橋は在ります。


湊橋が登場するその他の作品

  • 藤沢周平著「孤剣 用心棒日月抄」、「誘拐」の章、新潮社

湊橋 東京都中央区新川1-1-1

東京メトロ東西線・日比谷線 茅場町駅より約300m 徒歩約4分


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豊海橋

2012-08-11 | まち歩き

日本橋の下を流れる日本橋川が隅田川に注ぐところに架けられているのが今回御紹介する豊海橋です。最初の橋が架けられたのは江戸中期の元禄十一年(1698年)。この辺りは新堀河岸と呼ばれる諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸揚げする場所で、川に沿って白壁の酒蔵が並んでいました。現在の橋は昭和二年(1927年)に関東大震災からの復興事業により架けられたもので、東京都中央区の区民有形文化財に登録されています。トラス橋のように見えますが、フィーレンデール橋という梯子を横倒しにしたような一種のラーメン構造を持つ他にはあまり例の無い橋です。隅田川支流の河口部の第一橋梁は隅田川から帰港する船頭が区別しやすいように一つ一つデザインを変えてあり、この豊海橋をはじめ、萬年橋(小名木川)や柳橋(神田川)といった何れの橋も他に劣らず特徴的で美しい意匠を備えています。


隅田川に架かる永代橋は、現在は豊海橋よりも南側に在りますが、江戸期には現在地より上流の豊海橋の北に在り、従って永代橋を西に渡り、左に曲がると豊海橋という具合でした。忠臣蔵で知られる赤穂四十七士は、本所に在った吉良邸討ち入りの後、隅田川東岸を南に下り、永代橋を渡り、豊海橋を渡って泉岳寺へ引き揚げました。


時代小説の中では、豊海橋は池波正太郎著「泥鰌の和助始末」(鬼平犯科帳(七)に収録、文藝春秋)の中で登場しています。また、新装版「御宿かわせみ」(平岩弓枝著、文藝春秋)の中では、舞台となる小さな旅籠「かわせみ」は豊海橋の袂から少し外れたところに在ることになっています(※オリジナル版では、柳橋のはずれでした)。ちなみに、日本橋の袂から出発し、豊海橋を経て浅草を巡る小型水上バスの名前は「カワセミ」と言います。


豊海橋 東京都中央区新川1-19-2

東京メトロ東西線・日比谷線 茅場町駅より約750m 徒歩約10分


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上之橋

2012-08-04 | まち歩き

上之橋(かみのはし)は深川の仙台掘が隅田川と合流するところに架けられていた橋です。江戸時代から昭和59年(1984年)に清澄排水機場の建設に伴い撤去されるまで、佐賀町河岸通りに架かる橋として大きな役割を果たしました。江戸時代の深川には多くの水路が張り巡らされており、上之橋の100mほど南には中之橋が、更に南には油掘に架かる下之橋が在り、これらの橋により佐賀町は上佐賀、中佐賀、下佐賀に分けられていました。現在は水路が埋め立てられたため、上之橋同様に中之橋も下之橋も存在しませんが、ここに橋が在ったという僅かな痕跡として、上之橋がかつて存在した場所には、橋の歴史を永く留めるため、昭和五年(1930年)に関東大震災の震災復興事業により架設された最後の上之橋の親柱四本が残されています。


上之橋は、時代小説の中では、池波正太郎著「剣客」、「のっそり医者」(いずれも鬼平犯科帳(六)に収録、文藝春秋)に登場しています(作品中の表記は古地図[1]と同じ上ノ橋)。上之橋を北に渡り真っ直ぐ行くと、小名木川に架かる万年橋に至り、更に進むと竪川に架かる一ツ目橋に至ります。これら二つの橋は時代小説には頻繁に登場する橋です。上之橋とトリオを成す下之橋は、宮部みゆき著「お勢殺し」(初ものがたりに収録、新潮社)、池波正太郎著「穴」(鬼平犯科帳(十一)に登場しています。


[1] 御江戸大絵図、天保十四年(1843年) ※人文社から復刻地図が出版されています。


上之橋跡 東京都江東区清澄1-2-37

東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線 清澄白河駅から約700m 徒歩約9分


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