江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

牛の御前

2015-09-19 | まち歩き

隅田川の東岸、墨田区向島の墨田公園の一画に、牛嶋神社という神社があります。「牛の御前」というのは、この牛嶋神社の旧い名前です。現在の牛嶋神社がある墨田公園は、江戸時代には水戸徳川家の下屋敷があった地で、その頃の牛嶋神社(牛の御前)は、現在地よりも数百メートルほど北に在りました。この様子は、「隅田川向嶋絵図(安政三年/1856)」に描かれており、「牛ノ御前」は、「ミメグリ稲荷社(現三囲神社)」の北隣に、「弘福寺」の西隣に、そして「長命寺」の南側に川(現在は消失)を挟んで見ることが出来ます。

牛嶋神社の御由緒書きによれば、治承四年(1180年)に源頼朝が大軍を率いて下総国から武蔵国に渡ろうとした時に、豪雨による洪水のために(隅田川を)渡ることが出来ず、武将千葉介平常胤が祈願したところ、新明の加護によって全軍無事に渡ることが出来たため、頼朝はその神徳を尊信し、翌養和元年(1181年)に社殿を造営して、多くの神領を寄進させたとあります。「牛」と「頼朝」つながりということでは、小石川にある牛天神(現北野神社)にも似たような言い伝えがあり、この巡り合わせには興味をひかれます。

牛嶋神社の境内には、「撫牛」という牛の石像があり、自分の体の悪いところを撫で、牛の同じところを撫でると病気が治ると言われています。この撫牛の風習は、先に紹介した牛天神や各地の神社で見られるものですが、牛嶋神社の撫牛は、体だけではなく、心も治ると信じされており、また、子供が生まれた時によだれかけを奉納し、これを子供にかけると子供が健康に成長するという言い伝えもあります。

牛の御前は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)収録の「木兎引き(ずくひき)」の中に登場しています。北町奉行所の定町廻り同心・朽木勘三郎は、知人に誘われて出掛けた先で、見慣れぬ鳥を捕まえます。その鳥の手掛かりを探す勘三郎に、知人の旗本・大久保主計は、牛の御前で小鳥の品定めの会が催されるので、何か分かるのではないかと助言します。

 

牛の御前(牛嶋神社) 東京都墨田区向島1-4-5
東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅から約700m 徒歩約9分

 

 

撫牛


龍眼寺

2015-09-05 | まち歩き

東京スカイツリーの真下を流れる川を北十間川といい、亀戸天神の脇を流れる川を横十間川といいます。そして、二つの川が交わるところには、歌川広重の名所江戸百景「柳しま」にも描かれている柳島妙見堂柳島橋があります。龍眼寺(りゅうげんじ)は柳島橋から横十間川の東岸沿いに250メートルほど南に行ったところにあるお寺で、長い塀と門越しに見える木々に先ずは心惹かれます。

御本尊の聖観世音菩薩は、応永二年(1396年)の作(作者不詳)。この寺を開山した良博大和尚が比叡山での修行を終えて帰国の途中、柳島の辻堂に一泊したところ、その夜に観世音菩薩が夢枕に現れ、「観世音菩薩がこの床下にある」とのお告げを授かったとのこと。良博大和尚が至心に祈願したところ、村に流行していた疫病がたちまち平癒したことから、村人の願いにより、その観世音菩薩を本尊として「柳源寺(りゅうげんじ)」を建立しました。その後、寺の湧き水で洗顔すると目が良くなる眼病平癒の観世音として信仰を集め、「龍眼寺」(時代不明)と改められました。

龍眼寺は、別名を萩寺といいます。これは、江戸初期に住職が百種類もの萩を諸国から集めて植えたためで、本所絵図(文久三年/1863年)には、「龍眼寺」の文字の隣に、「萩寺ト云」と書き添えられています。また、江戸名所図会にも、萩を観る人々で賑わう様子が描かれています。現在も萩が植えられており、秋のお彼岸の頃が見頃です。

龍眼寺は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)の表題作「隠れ蓑」の中に登場しています。北町奉行所の定町廻り同心・朽木勘三郎と小池文造は、若き日には同じ道場に通う仲であったものの、ある事件を切っ掛けに小池は道場を破門となり、勘三郎に恨みを抱えたまま逐電。その小池が八年ぶりに両国で目撃されたため、勘三郎の周りでは緊張感が高まります。一方、小池は勘三郎が追っている事件とも関わりがある様子。勘三郎は小池の行方を探し、そして小池が萩寺と呼ばれる龍眼寺に潜伏していることをつかみます。

 

[1] 参考:龍眼寺ホームページ及び境内に設置の御由緒書き

 

龍眼寺 東京都江東区亀戸3-34-2
京成線・都営浅草線・東京メトロ半蔵門線押上駅から約1.1km 徒歩約14分