江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

根津権現

2013-01-26 | まち歩き

根津権現(現根津神社)は文京区根津に在る神社です。日本武尊が千駄木に創建したと伝えられる古社で、現在の社殿は、五代将軍徳川綱吉が、兄綱重の子綱豊(六代将軍家宣)を跡継ぎに定めた際に、綱豊の屋敷地を献納して、その地に造営したものです。宝永三年(1706年)の完成以来、震災や戦災でも失われずに残った建物で、国の重要文化財に指定されています。


境内に一歩足を踏み入れると、「良い神社だな」と感じます。東京では、多くの寺社が時代の移ろいの中で土地を失ったり、震災や戦災で建屋を焼失したりして、江戸の頃の賑やかさや規模を維持出来なくなってしまいましたが、江戸の頃より変わらぬ社殿の美しさや雰囲気が自然とそう感じさせるのだと思います。ツツジの名所としても知られ、毎年春には多くの人がツツジを目当てにこの地を訪れます。


根津権現は、時代小説の中では、門前の盛り場や岡場所などと共に度々登場します。例えば、「剣客商売(十)」(池波正太郎著、新潮社)の中では、岡場所の娼婦を巡って騒動が起こり、鬼平犯科帳シリーズ(池波正太郎著、文藝春秋)では、「暗剣白梅香」(第一巻収録)で根津権現門前の盛り場を一手にたばねている顔役が登場し、「女掏摸お富」(第二巻収録)では、お富が根津権現の盛り場で掏摸を働き、「むかしの男」(第三巻収録)では、過去のことで平蔵の妻・久栄を脅そうとした男が根津権現の総門前にある料理茶屋に入ります。「むかしの男」は、妻の過去など気にも留めない平蔵と、夫を信頼する妻・久栄の夫婦愛が書かれたシリーズの中でも秀作の一つです。


根津神社 東京都文京区根津1-28-9

東京メトロ千代田線 根津駅から約400m 徒歩約5分


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愛宕権現

2013-01-19 | まち歩き

標高25.7メートル。愛宕山は自然の山としては東京23区で最も高い山です。愛宕権現(現愛宕神社)は、その上に建つ神社で、慶長八年(1603年)に江戸の防火のために、徳川家康により祀られました。江戸の頃から眺めの良い場所として有名で、かつては、ここから東京湾越しに遠くは房総半島まで見渡せたそうです。


愛宕山は、NHKの前身である社団法人東京放送局が、ここに放送局と放送用のアンテナを置き、大正十四年(1925年)に日本発のラジオ放送を発信した地としても知られています。この高台にアンテナを設置したことは、電波を遠くに飛ばしたかったことと無縁では無かったでしょう。眺めが良いこととも合わせて、後の東京タワーや東京スカイツリーにも通ずる場所とも言えなくはないようにも思われます。


現代においては、江戸の頃よりも愛宕山の高さやここからの眺めへの興味は薄れたと言えると思います。しかし、「男坂」と呼ばれる大鳥居から神社へと続く長い階段、それもかなり急な石段は、東京広しと言えども、そうそう目にはしない見事な階段で、必見です。あまりに急なので、大人の男性ですら、階上から下を覗き込むと、「恐い」の声が自然に出る人が多くいます。「男坂」は、別名「出世の石段」とも呼ばれていますが、これは、曲垣平九郎というお侍が、馬でこの階段を駆け上がって名を上げたという古事に因むものです。過去、四名が馬でこの階段を上ることに成功していますが、この階段を目にすれば、事実とは言え、信じ難いものがあります。隣には「女坂」という、男坂よりは、やや緩やかな階段があります。


高くて眺めの良い場所というのは、いつの時代も人の気持ちを掻きたてるものです。おごり高ぶる気持ちが、ここに足を向かわせたかどうかは定かではありませんが、桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸藩士は愛宕権現に集まった後に桜田門外へ向かいました。


江戸の名所であった愛宕権現は、周辺の水茶屋などと共に時代小説にも度々登場します。例えば、池波正太郎著「消えた男」(鬼平犯科帳(十)に収録、文藝春秋)の中では、「男坂は六十八段の急な石段だが、その右手になだらかな石段道が山頂の本社へ通じていて、これを女坂と呼ぶ。」、「妙義の團右衛門」(鬼平犯科帳(十九)に収録)の中では、「この愛宕権現は、人も知る江戸四ヶ寺の一つで、胸をつくような男坂の石段をのぼりつめた愛宕山上の境内へ立つと、(中略)観光、参詣の人びとが絶え間もない。」と紹介されています。


愛宕神社 東京都港区愛宕1-5-3

東京メトロ日比谷線 神谷町駅から約550m 徒歩約7分


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石段が見事な「男坂」


霊雲寺

2013-01-12 | まち歩き

霊雲寺は、文京区湯島に在る寺院です。元禄四年(1691年)に、五代将軍徳川綱吉の命により、徳川家のため祈願所として、又、江戸城から見て鬼門の方角を鎮める寺として創建されました。江戸時代の名刹であり、江戸名所図会にも描かれた梵鐘は、創建当時から今に残るものです。広い敷地に大きな本堂を構えるお寺で、本堂に向かうとその大きさに思わず圧倒されます。

 

北に数百メートル行くと湯島天神が在ります。池波正太郎著、鬼平犯科帳(十七)(文藝春秋)の中でも、同心・松永弥四郎が怪しい侍を尾行する場面で、「頭巾の侍は、湯島天神下へ出て、切通しをあがり、天神社の境内に沿って左へ曲がった。右側が組屋敷、左側が天神社の門前町で、(中略)。少し行くと、右側が霊雲寺の塀外になる。この寺は大きな伽藍を誇っているわけではないが、関東真言律の惣本寺で、由来はまことに古い。」と湯島天神と霊雲寺の位置関係が記されています。

 

本郷台地の上に建ち、坂の多い地域です。近くには、日本サッカーミュージアムが在ります。

霊雲寺が登場するその他の作品

  • 葉室麟著「一蝶幻景」(乾山晩秋に収録)、角川書店
  • 葉室麟著「花や散るらん」、文藝春秋

 

霊雲寺 東京都文京区湯島2-21-6

東京メトロ千代田線湯島駅から約500m 徒歩約7分

 

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御厩河岸

2013-01-05 | まち歩き

御厩河岸は、浅草三好町(現東京都台東区蔵前二丁目)一帯の隅田川沿いの地のことです。現在の厩橋の西詰周辺と言った方が分かりやすいかもしれません。江戸の当時は、ここには厩橋は無く、その代わりに、「御厩河岸の渡し」と呼ばれる渡し船が、御厩河岸と対岸の本所石原町(現墨田区本所一丁目)とを結んでいました。


「御厩河岸の渡し」は、船上から遠くに富士山を望むことから、別名「富士見の渡し」とも呼ばれていました。この様子は、葛飾北斎の富嶽三十六景の秀作「御厩川岸より両国橋夕陽見(おんまやがしよりりょうごくばしのせきようをみる)」に見ることが出来ます。この絵は、隅田川東岸の本所側から西の空に富士山を望む構図で描かれているため、その印象から、御厩河岸は隅田川の東岸だと勘違いされることがありますが、前述したように、隅田川の西岸が正解です。


池波正太郎著「浅草・御厩河岸」(鬼平犯科帳(一)に収録、文藝春秋)の中では、御厩河岸は、「幕府御米蔵のたちならぶ西岸から東岸の本所へ、大川をわたるこの渡船は(中略)。御米蔵の北端、堀端をへだてた浅草・三好町の河岸が渡船場で、これを御厩河岸という。」と描写されています。大川は隅田川のことで、作品中では、火付盗賊改方の密偵である岩五郎が営む居酒屋「豆岩」が、船渡場に面した三好町に在るという設定になっています。


御厩河岸(厩橋西詰) 東京都台東区蔵前2-15-9

都営大江戸線蔵前駅からすぐ 徒歩約1分


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「御厩川岸より両国橋夕陽見」と同じ構図で撮った写真。御厩河岸は厩橋を渡った向こう岸のことで、橋と高い建物が無ければ、浮世絵と同じように暮れゆく空に富士山のシルエットが浮かぶはずです。