江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

小川橋

2015-07-04 | まち歩き

明治座から南西に150メートルほど行ったところに、浜町緑道という細長い公園が在ります。ここは、かつて浜町堀と呼ばれた水路が流れていたところです。小川橋は、浜町堀に架けられていた橋の一つで、現在の久松警察署のそばに在りました。

小川橋は、小川橋と呼ばれる以前には、難波橋の名が付けられていました。尾張屋版切絵図「日本橋北内神田両国濱町明細絵図(安政六年/1859年再版)」[1]には、小川橋と記されていますが、この切絵図の初版「神田濱町日本橋北之図(嘉永三年/1850年)」[2]には、難波橋と記されています。従って、この9年間の間に、橋の名が難波橋から小川橋に変わったと考えられます。

難波橋の名は、橋の西側に隣接していた難波町にちなむものでしょう。一方の小川橋の名の由来については、小川橋跡に立つ石碑[3]に、次のようなことが記されています。

「明治十九年(1886年)にピストル強盗事件が発生し、久松警察署の小川佗吉郎巡査が重傷を負いながら犯人・清水定吉を捕らえた。小川巡査はこの功により二階級特進し、警部補に任命されたが、当時の傷がもとで明治二十一年(1888年)にこの世を去った。東京府民は小川警部補の尊い死を惜しみ、この橋を小川橋と名付け不滅の功績を讃えた」

しかし、小川橋は、遅くとも安政六年には小川橋と名付けられていたことが地図の上からは明らかです。小川警部補が亡くなったのは明治二十一年ですから、小川警部補の死を惜しみ、小川橋と名付けたとする説とは少なくとも29年の開きがあります。では、なぜこの差が生じたのでしょうか。小川警部補という人が実在したのかさえも、疑わしく思われます。

しかし、幸いなことに、小川警部補については、記録が残されていました。日本警察彰功録(下巻)[4]には、およそ以下のようなことが記されています。

「小川佗吉郎は、加賀藩士の子で、明治十七年(1884年)に警視庁の巡査となり、久松警察署に在籍していた。明治十九年十二月三日の明け方に通報があり、その者が言うには、日本橋区馬喰町二丁目の書肆(書店?)石川スズの家で短銃強盗事件が発生したとのこと。佗吉郎は直ちに犯人を捕らえようとして、橘町を過ぎようとしたとき、一人の男に遭遇し、「何者か」とたずねると、男は瞽師(按摩?)であり、回診中と答えた。しかし、挙動には疑うところがあり、男は懐に隠し持っていた短刀を抜いて、佗吉郎に襲いかかった。佗吉郎は退かず、素手で立ち向かったが、腹と背に傷を負った。男は銃を発砲して逃げたが、佗吉郎はこれを追い、両国橋の川岸で、ついに男を捕らえた。男は石川スズの家を襲った犯人で、名を清水定吉といい、十数年来、短銃強盗を繰り返していた凶悪犯であった。東京の人々は戦々恐々と過ごしていたが、この逮捕により、ようやく安心することができた。佗吉郎は、この功績により、直ちに警部補に昇進。しかし負った傷は重く、わずかに癒えたものの、明治二十一年四月二十六日に帰らぬ人となった。」

小川橋は小川佗吉郎が警察官になる以前から小川橋と呼ばれていたものの、たまたま小川佗吉郎と名が同じであったことから、小川警部補の橋として知られることになり、後年、「小川巡査の死を惜しんで名付けられた橋」と人々に信じられるようになったというのが、真相ではないかと思われます。難波橋が小川橋に変わった理由は、はっきりしません。しかし、もしも小川橋が、難波橋のままだったならば、小川警部補の功績は歴史の中に埋もれてしまっていたことでしょう。小川橋の名が付いたからこそ、今の世に小川警部補を知る人がいる。小さいけれど、ドラマチックな物語です。

小川橋は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)収録の「門前捕り」の中に登場しています。浜町掘には、大川(隅田川)側から川口橋、組合橋、小川橋、高砂橋、栄橋、千鳥橋と橋が架かり、旗本須藤内蔵助の屋敷は、浜町掘下流の西の一角に在ります。北町奉行所同心の名倉健介は、須藤屋敷に忍び込んで捕らえられた泥棒を引き取るために、須藤屋敷を訪ねます。

 

[1] 国際日本文化研究センター蔵
[2] 国立国会図書館デジタルコレクション
[3] 昭和四十九年四月二十六日建立、警視庁創立100年記念、久松警察署創設100年記念、久松協力会建立、地元各連合町会協賛
[4] 日本警察彰功録(下巻)、吉原直次郎著、明治24年10月19日、国立国会図書館デジタルコレクション

 

小川橋跡 東京都中央区日本橋久松町1-1
東京メトロ日比谷線・都営浅草線人形町駅から約350m 徒歩約5分
都営新宿線浜町駅から約450m 徒歩約6分

 

小川橋の由来を記した石碑


最新の画像もっと見る

コメントを投稿