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古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

3・11に寄せて

2016-03-11 | 日記・エッセイ・コラム

今日で東日本大震災から丸5年が経ちました。今日の東京は、昨日と変わらぬ一日で、けれども震災が起きた時間には、「5年前には、地震が起きた頃だね」と同僚に声を掛けて、そして、また仕事に戻る。そんな一日でした。

東日本大震災を振り返ると、東日本大震災は、歴史上、人類が初めて津波のリアルな映像を目にし、そして、津波の本当の恐ろしさに気が付いた地震だったと思います。

地震国・日本に住む者として、誰もが津波のことは知っていて、ニュースや新聞でも繰り返しその恐ろしさは伝えらえていたのに、誰も本当の恐ろしさには気付いていなかったと思います。振り返ってみれば、その恐ろしさに気付くチャンスは何度もあったのに。2004年に起きたインドネシアのスマトラ沖地震では津波で22万人以上もの人が亡くなるか行方不明になっています。しかし、多くの人は、どこか遠い世界で起こっていることのようにしか感じられず、自分たちの身にも起こり得るリアルなこととは想像出来なかったのではないでしょうか。近年の日本でも、1983年の日本海中部地震や1993年の北海道南西沖地震の奥尻島で津波による犠牲者が出ています。しかし、多くの人は、その犠牲者に自分を重ねることが出来なかったように思います。「地震に対する備えは十分なはずだ」「あんな大きな地震は自分の周りでは起きないはずだ」と多くの人が根拠なく思っていた、あるいは防衛本能で、そう思いたかったのではないかと思います。

サザンオールスターズの大ヒット曲で、2000年のレコード大賞を獲った「TSUNAMI」という曲があります。歌詞を見てもらえば解るように、この曲は決して津波を軽んじた曲ではありません。多くの人が支持し、愛した曲で、それは今も変わりないと思います。ただ、この曲が今リリースされたなら、多くの人は、「TSUNAMI」というタイトルに違和感を持つはずです。2000年当時は、そして東日本大震災が起こるまでは、曲を流すテレビもラジオも、CDを売るレコード店も、そしてこの曲のリスナーも、誰も大して気にはしていなかったと思います。津波のことを知っていて無視していたのではなく、知らなかっったから、気にならなかったというのが実際ではないかと思います。研究者ですら、現実にあんな大津波が来るとは、誰も予想出来なかったのですから。

震災が起こった年の、2011年12月10日に、このブログで木場にある洲崎弁天社を取り上げました。この神社の境内には、寛政三年(1791年)に起きた高潮の被害で多くの死者・行方不明者が出たため、その後に幕府から住むことを禁じられた海側の土地との境に「波除碑」という碑が建てられています。同様の「これより海側に住んではならぬ」という碑は、大昔に津波に遭ったことのある東北の各地にも在ったと聞いており、子孫が同じ被害に遭わぬようにとの先人達の想いが伝わってきます。ただ残念ながら、これらの碑を建てた人の想いは、その人達が亡くなって記憶が失われると、碑とともに風化し、後の人の目には映らなくなっていきます。今回の東日本大震災では、地震国でかつ技術大国の日本で起こったため、多くの映像資料と記録が残されました。これらの映像と記録は、後年に残すべき波除碑だと思います。最近は、精神的な負担を与えないようにとの配慮から、ニュース等では津波の映像を流すことを自粛することも少ないようですが、健全な危機感を忘れ得ぬためにも、そして津波を知らない子供達にその恐ろしさを教えるためにも、ニュースや教育現場で津波の映像は提供され、共有されるべきものではないかと思います。被災地に残る震災被害を受けた建物を残すかどうかについては、被災者でない者が軽々しいことは言えませんが、広島に原爆ドームがあるからこそ、戦争を知らない者にも戦争の怖さが解るように、震災の遺構を残すことが、一つの波除碑を建てることにもなるようにも思えます。

震災はあまりに重いテーマで、被災者のことも、復興のことも、軽々しいことは言えません。自分には何が出来るかと考えてみた5年目。震災のことを忘れないことは大事だが、その怖さを正しく後世に伝えていく。それはもっと大事なことだと一人考えました。


3・11に寄せて

2015-03-11 | 日記・エッセイ・コラム

このブログを書き始めてから4年と少しが経ち、これまでに多くの神社やお寺を訪ねました。神社やお寺を訪ねる際には、欠かさずにやっていることがあります。「流儀」と呼べるほど恰好良いものではありませんが、ブログに載せる写真を撮らせてもらうので、神様や仏様の前で手を合わせ、「写真を撮らせていただきます」と心の内で許しを請います。自分が写真を撮られるなら、やはり声を掛けてもらった方が安心出来るからと、そんな気持ちで手を合わせます。

4年前に東日本大震災が発生してからは、「一日も早く、震災復興が成し遂げられますように」と祈ることが加わりました。祈るだけで何も出来ていませんが、祈ることで、震災はどこか遠くの世界のことではなく、自らにも関係していることなのだと思うようにしています。「がんばろう日本」のスローガンも、4年前よりだいぶ目にする機会が減りました。電力が不足して街が暗かったことや、水や電池が買えずに苦労した日々は遠くなりつつあります。あの時の切なさを、ともすれば忘れてしまうのではないかと恐れる自分を、祈ることで戒めます。

20年前に阪神・淡路大震災が起こったとき、これほどの自然災害は、生きている間には二度と起こらないだろうと思いました。しかし、4年前にそれ以上の地震が起きてしまい、望んでもいなかったのに、教科書に載るほどの暗い歴史の目撃者に二度もなってしまったことは、ある意味、人生の皮肉です。今は、「二度と起こらないだろう」ではなく、ただただ、「二度と起こって欲しくない」と切に思います。2014年には、広島や御嶽山や白馬で大きな自然災害がありました。小さな自然災害はもっとたくさんあります。人間の力は自然にはかなわず、どんなに知恵を働かせてもすべての自然災害を防ぎきれるものではありませんが、大小の自然災害全てが起きないようにと願います。

太平洋戦争が終わり、70年が経ちました。夏の広島や長崎の慰霊祭をニュースで見ていると、未だに癒されず、心に傷を抱えたままの人が多くいることがわかります。震災で大切なものを失った人の心の傷も、戦争で傷を抱えた人と同じように、ずっと癒えるものではないでしょう。既に頑張っている人に、無責任に「頑張って」とは言いたくはありません。ただ、この先の1年、そのまた次の1年と、被災者の皆様にとって良いことが増えて、それが積り、傷をやさしく覆うような、そんな平穏で心安らかな日々がもたらされることを願います。そして、世界中が、明日を心配せずに、安心して暮らせるようになることを願います。


3・11に寄せて

2014-03-11 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災から丸三年が経ちました。もう三年という気もしますし、まだ三年という気もします。色々な想いが交錯します。


この三年の間に、多くの人が震災に翻弄されました。震災に端を発した偏見や差別、争いごとも生じました。誰一人として、そうなることを望んではいなかったはずです。今後、時間が経って、それぞれに結末を迎えても、全員が納得するような結果を得ることは難しいということを考えると、ただただやるせない気持ちになります。あの大惨事から生き延びても、生きていくことへの辛さに耐え切れずに自ら命を絶つ人もいるとも聞きます。むなしい気持ちで一杯になります。インフラの復旧はもちろん大事なことですが、震災から三年が経ち、「本当の復興ってなんだろう」と考えることが増えました。被災者でない者にはその答を見付けられそうもありませんが、一つの想いとしては、子供達には未来を、大人達には不安の無い毎日を、全ての人々に笑って暮らせる社会を、そしていつか落ち着いて震災について語れる日をもたらすような、そんな復興になって欲しいと思っています。


二年前に、当ブログの中では最もアクセスが多いページは「仙台掘」であるということと、アクセスして頂いている方の中には仙台の人や東北の人がいるかもしれないという想いが頭によぎるということを紹介させて頂きました。「仙台掘」はその後も最もアクセス数の多いページであることは変わらず、最近では麻布に在る「「仙台坂」を紹介させて頂いたこともあり、仙台にまつわる地名を目や耳にするたびに、仙台や東北の人を思い出します。震災直後の慌しさはだいぶ落ち着いたものの、未だ多くの方が不自由な生活を強いられていることを思うと、それらの方々に一日でも早く平穏な日々が訪れることを願って止みません。新たな春をこの地で迎える人にとって、次の一年が幸多きものになりますように。


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麻布に在る仙台坂。一躍時の人となった百田尚樹氏の「影法師」(講談社)にも登場する坂です。


3・11に寄せて

2013-03-11 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災が起こったその日、東北の被災地では、他の国の災害で起こったような、暴動や略奪は決して起こらないだろうと思いました。そして、その予想は見事に当たりました。世界から絶賛された東北の人々の姿に、どれほどの感動を覚え、勇気をもらい、誇らしさを感じたことでしょうか。


神戸をはじめ、他の被災地の方々によりもたらされた、無償の優しさにも、感動を覚えました。傷つかなくても済むのなら、優しくなれない方が良いけれど、傷ついたから、優しくなれる真実もあることを知りました。


あの日、花を咲かせるはずだった、多くの枝は折れてしまったけれど、また、新しい枝が生えて、別の花を咲かせるでしょう。その花は、見える花かもしれないし、心の中にだけある、見えない花かもしれません。震災から、まだ二年。花を咲かせるには、もう何回かの冬をくぐらなければならないかもしれません。でも、誰しもが、その蕾を持っていると信じたいし、そう信じています。


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柳橋のたもとに在る関東大震災の震災復興記念碑。同じように、東北の被災地が復興を宣言出来る日が一日も早く訪れることを心から願っています。


3・11に寄せて

2012-03-10 | 日記・エッセイ・コラム

当ブログで最もアクセスの多いページは昨年4月23日に御紹介した「仙台堀」です。伊達正宗や仙台藩との関わりで東京には仙台の名の付いた地名があると紹介したもので、震災や被災地を意識して書いたものではありませんでしたが、他のページと比較するとなぜだかアクセス数が多いのです。そんなこともあり、また、このページに添えるための写真を撮っている最中に余震で怖い思いをしたこともあり、アクセスして頂いている方の中には仙台の人はいるだろうか、東北の人はいるだろうかという想いがいつも頭をよぎります。もしもそうであるならば、当ブログにアクセスして頂いている僅かな時間だけでも震災を意識せずにいられれば良いのだがと思っています。


震災から1年が過ぎましたが、震災で大切な人を亡くした人にとっては、時間は心の傷を癒す薬にはならないだろうと思っています。生きている限り、あの日を忘れることは出来ず、苦しみから逃れる術も無いことでしょう。被災していない者には、悲しみや苦しみを頭では理解出来ていても、同じ気持ちを共有することは出来ません。でも、せめて今日から明日、明日から明後日へと、少しでも心の痛みが和らぐことを切に願っています。


震災で東北は未曾有の被害を受けましたが、歴史的には東京も明暦の大火、安政の大地震、関東大震災、第二次世界大戦と壊滅的な被害を受けています。元々が低い土地に造られた都市なので水害でもかなり苦しめられたはずです。しかし、その都度、何年もの月日を費やしたにせよ、立派に復興を遂げ、今に至っています。だから同じことが東北で出来ないはずはないと信じています。


瓦礫の受け入れ先もままならず、差別や偏見は無くならず、政治家は失政を続けているばかりか、いつの間にか被告席から降りてしまったように振舞っていて、復興を信じていると言ったところで表面的な綺麗ごとにしか聞こえないかもしれません。現実には個々人で出来ることはとても小さくて、被災者の方々に直接的に手を差し伸べられることは多くないのは事実です。けれど、あの日を忘れずに、皆が前を向いて、出来る何かを続けていけば、必ずやそれが復興の一歩一歩になるのだと信じています。


一日も早く復興が成し遂げられますように。そして、被災者の方々に少しでも笑顔が増えますように。


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深川の仙台堀川。仙台藩の蔵屋敷が近くに在ったことが名前の由来です。


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南こうせつさんの名曲「神田川」で全国的にも有名な神田川は江戸時代に人工的に造られた川で、現在の飯田橋駅付近から秋葉原付近までの工事を仙台藩主・伊達政宗が行ったことから仙台堀と呼ばれるようになりました。