江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

茅場町薬師堂

2013-05-25 | まち歩き

お正月には神社で初詣。お彼岸やお盆にはお寺でお墓参り。旅行に出掛けたら、観光名所の神社やお寺を訪ね歩く。多くの日本人がこうであろうと思います。でも、よくよく考えてみれば、神道と仏教で宗教が異なっているのに、何となく不思議な感じもします。


日本人の、こういった宗教観の分析は専門家にお任せすることとして、事実としては、江戸時代には、神社とお寺とが同じ敷地内に同居している例が数多くありました。日本土着の神道と国外より伝来した仏教とが調和した状態で、神道の神に仏具を供えたり仏像を御神体としたりするようなことがありました。これを神仏習合といいます。その始まりは奈良時代に起源がある古いもので、侍の時代が終わるまで続きました。


明治に入ると、神道を国教にしたいという明治政府の政策の下、神仏習合が禁止され、神道と仏教、神と仏、神社と寺社とを明確に区別しなければならなくなりました。この政策により、それ以降、神社とお寺との区別に明確に線が引かれることになり、神宮寺を名乗っていた寺が神社になったり、別当として神社に付属していた寺が廃寺になったり、あるいは仏像を破壊するという過激な廃仏運動へと展開していくことになります。


前置きが長くなりましたが、茅場町薬師堂は、中央区茅場町に在る、現在の日枝神社と同じ敷地内に建つお寺でした。現在は、智泉院の名で、路地を隔てて日枝神社の隣に建っています。日枝神社は、江戸の当時は山王御旅所と呼ばれ、日吉山王権現(赤坂に在る現在の日枝神社)の祭礼に渡御する御神輿を安置するところでした。江戸名所図会には、茅場町薬師堂と山王御旅所が並んで建っていた様子が描かれており、薬師堂の縁日や山王祭で賑わう様子も描かれています。現在のように、茅場町薬師堂(智泉院)と山王御旅所(日枝神社)が分かれた経緯は、先に書いたように、神仏習合が禁止されたことによります。


茅場町薬師堂は、池波正太郎著「いろおとこ」(鬼平犯科帳(十二)に収録、文藝春秋)、「殺しの波紋」(同(十三))に登場していますが、現在の現地の様子と過去の経緯を知らなければ、智泉院がそれだとは気付かずに、うっかり読み飛ばしてしまいそうです。


茅場町薬師堂が登場するその他の作品

  • 葉室麟著「一蝶幻景」(乾山晩秋に収録、角川書店)

茅場町薬師堂(智泉院) 東京都中央区日本橋茅場町1-5-13

東京メトロ日比谷線・東西線 茅場町駅から200m 徒歩約3分


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海賊橋

2013-05-11 | まち歩き

首都高速都心環状線が江戸橋ジャンクションから昭和通に沿って南へ走る区間には、かつて楓川という川が流れており、日本橋川とつながっていました。海賊橋は楓川が日本橋川と合流するところに架けられていた橋で、東京証券取引所で知られる現在の兜町と日本橋の南詰方面とを結んでいました。橋の東詰に幕府の水軍を率いていた向井将監忠勝の屋敷が在り、水軍は海賊衆とも呼ばれていたため、海賊橋と名付けられました。将監橋とも呼ばれていたこの橋は、明治時代に海運橋と改称され、現在は、「かいうんはし」と刻まれた親柱が記念として現地に残されています。


海賊橋の下を流れていた川は、最初に記したように、楓川といいますが、「かえでがわ」と読むのか、「もみじがわ」と読むのかは、書き物によって異なっています。中央区教育委員会による海運橋親柱の説明板には楓川に「もみじがわ」の振り仮名がふられ、インターネット上でも「もみじがわ」と記すサイトが多いようです。一方、菅原健二著「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」(之潮、2007年12月25日)には、楓川に「かえでがわ」の振り仮名が振られ、楓川とは別に、紅葉川(もみじがわ)という川が現在の東京駅八重洲口辺りから八重洲通を流れて、楓川に合流していたことが記されています。一つの仮説ですが、京橋川につながる桜川(八丁掘)が便宜的に京橋川とも呼ばれたように、紅葉川(もみじがわ)につながる楓川(かえでがわ)が、いつしか「もみじがわ」と呼ばれるようになり、「楓川=もみじがわ」と読まれるようになった可能性もあるのではないでしょうか。真相を御存知の方がいらっしゃいましたら、是非ともコメント頂ければと思います。


海賊橋は、時代小説の中では、中島要著「刀圭」(光文社)の冒頭で登場しています。主人公で医師の井坂圭吾の患者となる勘太は、腹を切られて重症を負った際に、海賊橋の近くで助けられます。


海運橋親柱(西詰) 東京都中央区日本橋1-20-3

東京メトロ東西線・都営浅草線 日本橋駅から約150m 徒歩約2分


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