江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

常磐橋

2015-03-21 | まち歩き

日本銀行の裏手に、歩行者用の「ときわばし」という石橋が在り、漢字では「常磐橋」と書きます。その上流に在る橋が「しんときわばし」で、漢字では「新常盤橋」と書きます。石橋の「常磐橋」の下流に在る橋は、これもまた「ときわばし」といい、漢字では「常盤橋」と書きます。石橋の「常磐橋」のところには、江戸時代には「ときわばし」御門という、江戸城の門が存在しましたが、その跡地の公園は「常盤橋公園」と言います。

その「ときわばし」御門を古地図で確認すると、尾張屋版切絵図「御曲輪内大名小路絵図(嘉永二年/1849年)」には「常盤橋御門」と記されていますが、「日本橋北内神田両国浜町明細絵図(嘉永三年/1850年)」には「常磐橋御門」と記されています。一方、近江屋版切絵図「御大名小路辰之口辺図(嘉永二年/1849年)」「日本橋北神田辺之絵図(嘉永三年/1850年)」には共に「常磐橋御門」と記されています。

「常磐橋」と「常盤橋」。とにかく、ややこしいですね。

今回、紹介するのは、「ときわばし」御門に架けられていた、「ときわばし」で、ここでは「常磐橋」の字を使うことにします。この橋は現在の日本橋川を渡す橋で、常磐橋御門は江戸城の正門である大手門へ向かう外郭正門でした。隣接する常盤橋公園には、常磐橋御門が置かれた当時そのままの石垣が残されており、資料や写真からだけでは体感することの出来ない当時の様子を知ることが出来ます。現在の石橋は、明治に入って解体された小石川御門の石垣を使って、明治十年(1877年)に造られたものです。平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災で被災したため、現在は復旧のための解体工事が行われています。写真は現在の様子で、前回、東日本大震災について触れたので、この橋が完全に復旧した時にもう一度取り上げたいと思い、復興途上の様子をそのまま紹介することにしました。

用心棒日月抄(藤沢周平著、新潮社)の主人公・青江又八郎は、常磐橋御門(作品中では常盤橋御門)内に屋敷を構える、老中小笠原佐渡守の用心棒を請け負います。又八郎は、それとは別に、佐渡守が人目を忍んで出掛ける理由を浮気だとにらむ、さる女性から、佐渡守の浮気を暴くように依頼されます。果たして、佐渡守が出掛ける理由は何なのか?

 

常磐橋(常盤橋公園) 東京都千代田区大手町2-7-2
東京メトロ半蔵門線三越前駅から約160m 徒歩約2分

 


3・11に寄せて

2015-03-11 | 日記・エッセイ・コラム

このブログを書き始めてから4年と少しが経ち、これまでに多くの神社やお寺を訪ねました。神社やお寺を訪ねる際には、欠かさずにやっていることがあります。「流儀」と呼べるほど恰好良いものではありませんが、ブログに載せる写真を撮らせてもらうので、神様や仏様の前で手を合わせ、「写真を撮らせていただきます」と心の内で許しを請います。自分が写真を撮られるなら、やはり声を掛けてもらった方が安心出来るからと、そんな気持ちで手を合わせます。

4年前に東日本大震災が発生してからは、「一日も早く、震災復興が成し遂げられますように」と祈ることが加わりました。祈るだけで何も出来ていませんが、祈ることで、震災はどこか遠くの世界のことではなく、自らにも関係していることなのだと思うようにしています。「がんばろう日本」のスローガンも、4年前よりだいぶ目にする機会が減りました。電力が不足して街が暗かったことや、水や電池が買えずに苦労した日々は遠くなりつつあります。あの時の切なさを、ともすれば忘れてしまうのではないかと恐れる自分を、祈ることで戒めます。

20年前に阪神・淡路大震災が起こったとき、これほどの自然災害は、生きている間には二度と起こらないだろうと思いました。しかし、4年前にそれ以上の地震が起きてしまい、望んでもいなかったのに、教科書に載るほどの暗い歴史の目撃者に二度もなってしまったことは、ある意味、人生の皮肉です。今は、「二度と起こらないだろう」ではなく、ただただ、「二度と起こって欲しくない」と切に思います。2014年には、広島や御嶽山や白馬で大きな自然災害がありました。小さな自然災害はもっとたくさんあります。人間の力は自然にはかなわず、どんなに知恵を働かせてもすべての自然災害を防ぎきれるものではありませんが、大小の自然災害全てが起きないようにと願います。

太平洋戦争が終わり、70年が経ちました。夏の広島や長崎の慰霊祭をニュースで見ていると、未だに癒されず、心に傷を抱えたままの人が多くいることがわかります。震災で大切なものを失った人の心の傷も、戦争で傷を抱えた人と同じように、ずっと癒えるものではないでしょう。既に頑張っている人に、無責任に「頑張って」とは言いたくはありません。ただ、この先の1年、そのまた次の1年と、被災者の皆様にとって良いことが増えて、それが積り、傷をやさしく覆うような、そんな平穏で心安らかな日々がもたらされることを願います。そして、世界中が、明日を心配せずに、安心して暮らせるようになることを願います。


福厳寺

2015-03-07 | まち歩き

赤穂四十七士の一人に、大石瀬左衛門信清という人がいます。その名からも判るように、四十七士を率いた大石内蔵助良雄の縁者で、内蔵助の曾祖父・良勝の弟・信云の孫にあたる人です。

この瀬左衛門の伯父にあたる人に大石無人という人がいます。無人は信云の長男として生まれましたが、家督を継いだのは弟で、瀬左衛門の父でもある信澄でした。無人自身は赤穂藩に仕えた時期があったものの、やがて赤穂藩を離れ、江戸で暮らすようになります。そして、二人の息子も赤穂藩に仕えることはありませんでした。

しかし、無人と次男の大石三平良穀は、赤穂藩には仕えてはいなかったものの、赤穂浪士の討ち入りに際しては、親子でこれを支援しました。そして、討入りが行われた12月14日に吉良上野介が在宅しているとの知らせを国学者・羽倉斎(荷田春満)から得て、内蔵助につないだのが、大石三平でした。

その大石三平の墓(墨田区登録有形文化財)が在るのが、墨田区に建つ福厳寺です。江戸開府以前からある古刹で、徳川第3代将軍・徳川家光が、父・秀忠の冥福を祈るために寄進した朱塗りの寺門から、古くから赤門寺と呼ばれています。現在の赤門は、震災、戦災を経て、戦後に復興されたものです。一説には、大石三平が赤穂浪士のために、福厳寺を集会場所として用意したとも言われています[1]

福厳寺は、葉室麟著「花や散るらん」(文藝春秋)の中で、大石三平が時おり参禅する寺として登場しています。ある日、久し振りに座禅を組んだ三平は、本堂から広縁に出たところで、三平を待っていた知人の羽倉斎と顔を合わせます。余談ですが、羽倉斎ゆかりの国学発祥の碑は、神田明神の境内に建っています[2]

 

[1] 墨田区公式ウェブサイト
[2] 神田明神ホームページ

 

福厳寺(赤門寺) 東京都墨田区東駒形3-21
都営地下鉄浅草線 本所吾妻橋駅から約200m 徒歩約3分