江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

和泉橋

2014-08-30 | まち歩き

和泉橋は、国道4号線(日光街道)が神田川を渡るところに架かる橋です。橋の北側には東京メトロ日比谷線とJRの秋葉原駅が、南側には都営新宿線の岩本町駅が在り、自動車交通も人通りも多い橋です。少し上流には、狸の神社として知られる、柳森稲荷が在ります。

 

橋の名は、橋の北側に藤堂和泉守の上屋敷が在ったことに由来すると一説では言われています。試しに元禄時代の古地図[1]を開いてみると、確かに橋の北側には藤堂和泉守の屋敷が描かれ、和泉橋には和泉守にちなみ「イツミトノハシ」と記されています。「和泉殿橋」と呼ばれていた時代は結構長かったようで、およそ80年後の地図[2]にも「和泉トノハシ」の文字は見て取れます。更に70年程後の地図[3]になると短縮された「イヅミハシ」の名が記されており、この頃には「和泉橋」の名が定着していたようです。

 

橋の名の由来となったゆえに藤堂家の屋敷は“橋の近くに在った”と形容されることがありますが、古地図と照らし合わせてみると、その位置は現在の神田和泉町の辺りの、橋からは“やや離れた”ところであったことが分かります。藤堂家よりも橋に近い大名屋敷がいくつも在ったにも関わらず、和泉守の名が付けられたということは興味深いことで、色々な想像を膨らませます。ちなみに神田和泉町の町名も和泉守に由来するものです。また、藤堂家歴代当主の一人である藤堂高虎は、上野東照宮を建立し た人で、高虎を含む藤堂家の墓所は非公開ながら今も上野動物園内に存在しています。

 

時代小説の中では、和泉橋は、藤沢周平著「溟い海」(暗殺の年輪に収録、文藝春秋)、藤沢周平著「風雪の檻 獄医立花登手控(二)、押し込み」(講談社)、池波正太郎著「剣客商売(十五)、その前夜」(新潮社)等に登場しています。

 

[1] 元禄江戸図、元禄六年(1693年)/古地図史料出版(株)復刻地図

[2] 明和江戸図、明和八年(1771年)/古地図史料出版(株)復刻地図

[3] 御江戸大絵図、天保十四年(1843年)/人文社復刻地図

 

和泉橋北詰 東京都千代田区神田佐久間町1-11-7

東京メトロ日比谷線 秋葉原駅からすぐ

JR秋葉原駅から約160m 徒歩約2分

都営新宿線 岩本町駅から約130m 徒歩約2分

 

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浅草橋

2014-08-16 | まち歩き

浅草橋は神田川に架かる橋です。隅田川から数えて二つ目の橋で、周囲には多くの屋形船屋が在ります。上流下流に屋形船が舫ってある様は、都会の真ん中にありながら、その喧騒を忘れてしまいそうな、何となく感じの良い場所です。


現在の橋は昭和五年(1930年)に架けられた鋼アーチ橋ですが、明治時代には石橋でした。この石橋を架けたのは、熊本県の通潤橋を造った肥後の石工・橋本勘五郎で、その頃に石橋で建造された万世橋や江戸橋もこの人の手によるものです。現在は、残念ながら、いずれの石橋も残っていませんが、もしも現代にそのいずれか一つでも残っていたならば、通潤橋をツールに持つ美しい橋として、東京を代表する橋になっていたのではないかと想像します。


さらに時代を遡った江戸の頃には、浅草橋の南詰には浅草御門が在りました。江戸城の外堀の役目を果たす神田川に設けられた門の一つで、その名の通り浅草に通じています。ただし、ここから浅草までは、まだ2キロメートルほど離れており、距離も名前から想像する周辺のイメージもだいぶ浅草からは離れています。明治時代の石橋は、この門の見附(見張り所)を解体した際に出た石材を利用して架けられたものです。


時代小説の中の浅草橋はと言えば、周辺に船宿も多く、作品に彩りを添える風景としては申し分無いのですが、登場人物がここを通り過ぎる際には、「浅草橋を渡る」のではなく、「浅草御門をくぐる」と記されることの方が多く、それゆえ、時代小説への登場回数はそう多くはありません。数少ないところとしては、藤沢周平著「囮」(暗殺の年輪に収録、文藝春秋)、池波正太郎著「五年目の客」(鬼平犯科帳(四)に収録、文藝春秋)、池波正太郎著「剣客商売(十五)、二十番斬り」(新潮社)等が在ります。


浅草橋 東京都台東区浅草橋一丁目

JR・都営地下鉄浅草橋駅から160m 徒歩約2分


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