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江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

弥勒寺橋

2016-04-02 | まち歩き

周りと比べて何となく違和感がある土地。少し前なら注目もされなかったでしょうが、最近はNHKのテレビ番組「ブラタモリ」と自らも地形マニアを公言する司会者のタモリさんのお蔭で、だいぶ全国区になったのではないかと思われます。そんな変な土地の一つが、地下鉄森下駅A5出口を出たところにも存在します。「えっどこに?」と思う方もいるかもしれませんが、A5出口を出たら周りを見渡してみて下さい。現地に足を運ぶことが出来ない人は、地図を見ていただきたいと思います。

A5出口を出ると、目の前には清澄通という、深川と本所を南北につらぬく交通量の多い通りが現れます。そして、A5出口を挟む格好で、平行する2本の道路が清澄通となぜか「斜め」に交差しています。この辺りの通りと通りは、大抵は直角に交わっています。では、なぜここの道だけが斜めに交わっているのでしょうか。それは、江戸時代には、ここに五間掘と呼ばれた水路が在り、その水路が埋め立てられて無くなった後、水路に沿って道だけが残ったからです。

弥勒寺橋は、清澄通が五間掘と交わる森下駅A5 出口のところに架けられていた橋で、その名は近くに在る弥勒寺に由来します。寛文十一年(1671年)には既に橋が架けられていたことが確認されていますが、弥勒寺がこの地へ移ってきたのは、元禄二年(1679年)であるため、弥勒寺橋と呼ばれるようになったのはそれ以降のことと考えられています。[1]

弥勒寺は、池波正太郎著「鬼平犯科帳シリーズ」(文藝春秋)では、その門前に、お熊ばあさんの営む茶店「笹や」が在る寺としてお馴染みです。一方、弥勒寺橋の方も時代小説には度々登場しており、例えば藤沢周平著「獄医立花登手控えシリーズ」(講談社)や「彫師伊之助捕物覚えシリーズ」の中では、弥勒寺や六間堀・五間掘等とともに作品を彩るランドマークとなっています。

 [1] 江東区案内板

 弥勒寺橋(森下駅A5出口) 東京都江東区森下2-30-7
都営新宿線森下駅A5出口からすぐ

 

手前から奥に走る通りが清澄通で、右奥の三角屋根が森下駅A5出口。画面左下から右へ走る道が五間堀に沿う道で、横断歩道のところが弥勒寺橋でした。


関東郡代

2016-02-13 | まち歩き

さほど歴史に強くなくても、奉行という江戸時代の役職については広く知られていることと思います。例えば、時代劇「遠山の金さん」や「大岡越前」で知られる町奉行は、正確なことは分からないまでも、警察と裁判所の機能を合わせ持つ役所であることが想像できますし、勘定奉行はその名から財政を司る役所であることが、寺社奉行はお寺や神社を管理する役所であることが想像できます。一方、代官という役職も広く知られていることと思います。代官というのは、君主や領主に代わり、任地の事務を行う人やその地位を指しますが、それを知らなくても、「越後屋、お主も悪よのう。ハハハ。」、「そう言うお代官様こそ。フフフ。」という具合に、力を持ったお役人ということは想像が付くのではないかと思います。

ところが、郡代という役職については、奉行や代官に比べると、はるかに知名度が低いのではないかと思われます。この郡代という役職は、時代によって違いはあるものの、一般には、郡単位の広い地域を治めた代官のことを指します。江戸時代中期以降は、関東・美濃・西国・飛騨の四カ所に置かれていました。良い例えかどうかは分かりませんが、今風に言えば、関東信越○○局のような地方行政官と考えると、なんとなくイメージがつかめるのではないかと思われます。

四つの郡代の一つである関東郡代屋敷は馬喰町に在りました。現在の位置関係では、神田川に架かる浅草橋の南詰にあたり、その跡地には、交番や女学校等が建ちます。郡代の役職は、寛政四年(1792年)まで伊那氏が代々世襲で受け持ち、関東広域の年貢の徴収、治水、勧農、新田開発、紛争の処理、教育の管理等を担っていました。

新田次郎著、「怒る富士(上)(下)」(文藝春秋)は、富士山の宝永大噴火(宝永四年/1707年)で被災した民を救うために、関東郡代・伊那半左衛門が奔走する長編時代小説です。作品は新田先生によるフィクションではありますが、史実を元に丁寧に書かれた小説であるため、300年前に起きた富士山の噴火と関東郡代の関わり、当時の権力者たちの関係を知るには良い本です。また、関東郡代とは関係ありませんが、郡代という役職が印象的に登場する作品の一つとしては、藤沢周平著「風の果て(上)(下)」(文藝春秋)があります。

 

関東郡代屋敷跡(久松警察署東日本橋交番) 東京都中央区日本橋馬喰町2-7-2
JR総武快速線馬喰町駅から約100m 徒歩約2分
JR総武線・都営地下鉄浅草線浅草橋駅から約240m 徒歩約3分

 

 

写真奥のビル群の辺りが関東郡代屋敷が在ったところ

 

 

東日本橋交番脇に立つ案内板

 


王子権現

2016-01-30 | まち歩き

王子権現(現王子神社)は、北区王子にある神社です。創建の頃は詳らかではありませんが、源義家が奥州征伐の折に慰霊祈願を行ったという故事が伝えられる大社です。元亨二年(1322年)に領主豊島氏が、石神井川沿いの高台に紀州(現在の和歌山県)の熊野三社権現から王子大神を勧請し、改めて「若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)」として奉斉し、熊野にならって景観を整えたと言われています。これにより、この地は王子と呼ばれるようになりました。王子権現の下を流れる石神井川は、この地域では音無川と呼ばれており、これも紀州の地名を擬したとの説があります。実際、熊野三社の一つである熊野本宮大社のすぐそばには、音無川という川が流れており、ここに由来があると考えても不自然ではありません。
戦国時代には、豊島氏に代わり小田原の北条氏が領主となり、江戸時代に入ると徳川家との関係が深まります。八代将軍・徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であったため、紀州ゆかりの王子権現を度々訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。これが後に花見の名所として賑わうようになる、現在の飛鳥山公園です。

王子権現は、鬼平犯科帳シリーズ(池波正太郎著、文藝春秋)には、比較的多く登場しており、なぜだか王子権現の周りには多くの悪者がいます。主人公・長谷川平蔵の暗殺を請け負った金子半四郎は王子権現近くの植木屋の離れに住み(第一巻「暗剣白梅香」)、平蔵が王子権現で見た女は元掏摸(第二巻「女掏摸お富」)で、平蔵の妻女・久栄を強請る近藤勘四郎は王子権現近くの百姓家を隠れ蓑とする盗人宿に潜伏し(第三巻「むかしの男」)、王子権現近くの山吹屋という料理茶屋で働くお勝は素性が知れず(第五巻「山吹やお勝」、第八巻「白と黒」)、王子権現の裏参道近くの木陰では娘が男に強姦され、さらに二人が死ぬ殺人事件が起きます(第十四巻「浮世の顔」)。また、平蔵が王子権現の料理茶屋で従兄の三沢仙右衛門から耳にした「権兵衛酒屋」では、何者かに店が襲われるという事件が起きます(第十七巻「権兵衛酒屋」の章)。

 

王子権現(王子神社) 東京都北区王子本町1-1-12
JR京浜東北線・東京メトロ南北線王子駅から約350m 徒歩約5分
都電荒川線王子駅前駅から約300m 徒歩約4分

 


穴八幡宮

2016-01-09 | まち歩き

穴八幡宮は、新宿区西早稲田に在る神社です。北は早稲田大学早稲田キャンパスに、南は早稲田大学戸山キャンパスに挟まれる形で、早稲田通りと諏訪通りが分岐するところの高台に建ちます。牛込の総鎮守で、江戸名所図会には、高田八幡宮の名で記されるとともに、「世に穴八幡とよべり」との添え書きがあり、切絵図[1][2]にも穴八幡の名が記されていますので、当時から穴八幡の名は広く用いられていたものと想像されます。

この穴八幡の「穴」という名。何とも興味を引かれますが、この「穴」とはいったい何のことでしょうか。答えは、穴八幡宮の建つ台地に開いた洞穴を示しています。穴八幡宮が配布する「穴八幡宮参拝の栞」では「神穴」と紹介される穴で、寛永十八年(1641年)に、宮守(江戸名所図会では社僧(=神社で仏事を修めた僧侶))の草庵を作るために山裾を切り開いたときに発見されました。この神穴は、現在は、出現殿(平成十八年竣工)という建物内部に祀られています(非公開)。

穴八幡は、鬼平犯科帳(二十二)「迷路」(池波正太郎著、文藝春秋)にも登場する神社です。迷路の「法妙寺の九十郎」の章では、主人公長谷川平蔵の息子辰蔵が、剣術の稽古帰りに穴八幡前の茶店で甘酒を飲む場面があります。稽古嫌いの辰蔵でしたが、最近は腕を上げ、茶店帰りの夜道で突如曲者に襲われるものの、難なくこれを撃退します。

穴八幡が登場するその他の作品

  • 鬼平犯科帳(七)、隠居金七百両、池波正太郎著、文藝春秋
  • 鬼平犯科帳(十)、追跡、池波正太郎著、文藝春秋

 

[1] 大久保外山高田辺之図(嘉永四年/1851年)
[2] 牛込市谷大久保江図(嘉永七年/1854年)

 

穴八幡宮 東京都新宿区西早稲田2-1-11
東京メトロ東西線早稲田駅から約200m 徒歩約3分

 

 


水稲荷

2015-12-12 | まち歩き

水稲荷神社は、新宿区西早稲田に在る神社です。江戸名所図会が書かれた江戸の頃は、高田稲荷明神社と呼ばれ、高田馬場よりも東側、穴八幡宮の北隣に在りました。水稲荷が高田馬場の北側の現在地に遷座したのは、昭和三十八年(1963年)のことで、旧地には現在は早稲田大学が建っています。
水稲荷と呼ばれるようになったのは、元禄十五年(1702年)に椋の根元(江戸名所図会では榎の椌)より霊泉が湧出し、眼病を患う者が、その水で目を洗ったところ、治癒したことから、この地に住む人々が水稲荷と称するようになったためです。
境内には、高田富士と呼ばれる、江戸切絵図[1][2]にも描かれた富士塚が在り、これも旧地に在ったものが現在地に移されたものです。他には、高田馬場での堀部安兵衛の助太刀を称える石碑等が在ります。

水稲荷は、時代小説の中では、鬼平犯科帳(十)「追跡」(池波正太郎著、文藝春秋)の中に登場しています。火付盗賊改方・長谷川平蔵は、目白台の私邸にほど近い雑司ヶ谷の鬼子母神を参詣した折、かつて火付盗賊改方の目明しを務めていた、甚五郎という男を見付けます。甚五郎には、盗賊に盗賊改方の情報を流したのみか、盗賊の盗み働きを陰から助けた過去があり、それ故に平蔵は甚五郎の尾行を開始します。ところが尾行の最中、平蔵の前に「一手、お教えをたまわりたい」と立ち合いを望む下氏九兵衛と名乗る浪人が現れます。平蔵は九兵衛のせいで、甚五郎を見失い、厄介ごとに巻き込まれます。この九兵衛は、水稲荷の裏手に在る剣術道場に仮寓しています。

 

[1] 大久保外山高田辺之図(嘉永四年/1851年)
[2] 牛込市谷大久保江図(嘉永七年/1854年)

 

水稲荷神社 新宿区西早稲田3-5-43
都電荒川線早稲田駅から約400m 徒歩約5分
東京メトロ東西線早稲田駅から約1,000m 徒歩約13分

 


高田馬場

2015-11-21 | まち歩き

高田馬場は、江戸時代の高田、現在の西早稲田に存在した馬場です。JR山手線の高田馬場の駅名の由来となった史跡で、高田馬場駅からは早稲田通沿いに東に1キロメートルほど行ったところに在りました。現在はビルが立ち並び、馬場の痕跡は全くありませんが、地図や航空写真を眺めると、馬場の形をトレースするように道路が長方形を形作っており、ここに馬場があったことが分かります。面白いことに、駅名や地名の由来になったにもかかわらず、馬場があった場所は、行政区上の高田馬場の外に存在しています。

高田馬場が築かれたのは寛永十三年(1636年)で、江戸の馬場のうちで最も古いものの一つです。享保年間(1716年~1735年)には、馬場の北側に松並木が植えられ、8軒の茶屋が在ったとされています。馬術の訓練場としてだけでなく、雑司ヶ谷の鬼子母神を参拝する人々が途中に立ち寄る遊び場でもあり、江戸名所図会によれば、賭的、大的、小的、騎射、能囃子、土佐(土佐浄瑠璃)、外記(外記浄瑠璃)、放火(曲芸)等が出て賑わったそうです。また、高田馬場を有名にした出来事に、赤穂四十七士の一人である堀部安兵衛が義理の叔父・菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をして名を挙げた「高田馬場の決闘」があります。この事件は、安兵衛が堀部家の養子となる以前のことで、安兵衛はまだ生家の中山姓を名乗っていました。

高田馬場が登場する時代小説の一つには、堀部安兵衛の少年時代から吉良邸討入りまでを痛快に記した「堀部安兵衛(上)、(下)」(池波正太郎著、新潮社)があります。「堀部安兵衛」は、池波作品の中でも、傑作の一つに数えるに相応しい作品で、特に高田馬場の決闘の場面は、同作品の中で最も素晴らしい部分と言えます。

 

高田馬場が登場するその他の作品

  • 鬼平犯科帳(七)、隠居金七百両、池波正太郎著、文藝春秋
  • 鬼平犯科帳(二十二)、法妙寺の九十郎、池波正太郎著、文藝春秋
  • おもかげ橋、葉室麟著、幻冬社

 

高田馬場(西早稲田交差点にある説明板) 東京都新宿区西早稲田3-1−1
東京メトロ東西線早稲田駅から約750m 徒歩約10分
JR・東京メトロ東西線高田馬場駅から約1.2㎞ 徒歩約15分

 

西早稲田交差点から眺めるかつての高田馬場。西早稲田交差点が馬場の東南の角にあたる。


鬼子母神

2015-10-31 | まち歩き

鬼子母神(きしもじん)は、豊島区雑司が谷に在るお寺です。このお寺でお祀りしている鬼子母神は、仏教を守護する善女神の一人で、「鬼」とは正反対の、安産と子育ての神様です。インドでは訶梨帝母(カリテイモ)と呼ばれ、嫁いで千人の子の母となりましたが、その性質は暴虐この上無く、人の子を奪って食べるので、人々から恐れられ、憎まれていました。お釈迦様は、この過ちを戒めるために、訶梨帝母の最愛の末子を隠し、子を食べられた父母の嘆きの深さを訶梨帝母に悟らせました。過ちを悟った訶梨帝母は、お釈迦さまに帰依し、その後、安産と子育ての神となり、人々に尊崇されるようになりました。雑司が谷の鬼子母神像は、鬼形ではなく、菩薩の姿をされているため、鬼子母神の「鬼」の字は、一番上の点が無い、角(つの)が取れた鬼の字が用いられています。

鬼子母神は、鬼平犯科帳(池波正太郎著、文藝春秋)の主人公・長谷川平蔵の目白台の屋敷から、さほど遠くないところに在るため、同シリーズの中で度々登場します。鬼平犯科帳(三)に収録の「むかしの男」では、鬼子母神門前の茶店の老婆が、平蔵の屋敷に、平蔵の妻女・久栄に宛てた手紙を届けます。久栄は手紙の差出人を見て、眼の色が変わります。

 

鬼子母神が登場するその他の作品

  • 鬼平犯科帳(七)、隠居金七百両
  • 鬼平犯科帳(十)、追跡
  • 鬼平犯科帳(十二)、白蝮
  • 鬼平犯科帳(十二)、二つの顔
  • 鬼平犯科帳(十五)、赤い空
  • 鬼平犯科帳(十八)、おれの弟
  • 鬼平犯科帳(二十三)特別長編「炎の色」、夜鴉の声
  • 鬼平犯科帳(二十三)特別長編「炎の色」、囮
  • 鬼平犯科帳番外編「乳房」、雑司ヶ谷・鬼子母神境内

 

鬼子母神 東京都豊島区雑司が谷3-15-20
都電荒川線鬼子母神前から約300m 徒歩約4分
東京メトロ副都心線雑司が谷駅から約300m 徒歩約4分

 

 


南蔵院

2015-10-17 | まち歩き

南蔵院は豊島区高田にある寺院で、室町時代に円成比丘(えんじょうびく)(永和二年(1376年)寂)が開山したとされる古刹です。前回ご紹介した面影からは北に200メートルほど行ったところに在ります。古くは道を挟んで向かい合う氷川神社の別当でした。本尊の薬師如来立像は奥州藤原氏の持仏で、円状比丘が諸国遊化のとき、彼の地の農家で入手し、この地に安置したと伝えられています。(江戸名所図会には聖徳太子の作にして、藤原秀衡の念持仏であり、奥州平泉に在ったと記されています。)

葉室麟著「おもかげ橋」(幻冬社)に登場する、小池喜平次の店の寮は、この南蔵院の東側に在るという設定です。草波弥市と小池喜平次の二人は、九州肥前蓮乗寺藩の元藩士で、過去に藩内の抗争に巻き込まれて国許を追われ、現在は江戸で暮らしています。剣客指南で糊口をしのぐ弥市。士分を捨て、飛脚問屋の主となった喜平治。今の二人は蓮乗寺藩とは何の関わりも無く日々を過ごしていますが、ある日突然、かつての上司の娘で、二人が想いを寄せていた萩乃という女性の護衛を依頼されます。依頼を断れず、二人は、この喜平次の店の寮で萩乃を匿います。

南蔵院は鬼平犯科帳シリーズ(池波正太郎著、文藝春秋)にも登場しており、第七巻に収録の「隠居金七百両」の中では、南蔵院の山門から躍り出た悪者二人が、女をかどわかします。第十八巻に収録の「おれの弟」の中では、長谷川平蔵の弟弟子・滝口丈助が、夜明けに南蔵院の門外に立ち止まり、拝礼する場面が登場します。滝口丈助は、これから決闘に向かう様子で、姿を隠してこれを見つめる平蔵は緊張します。

 

南蔵院 東京都豊島区高田1-19-16
都電荒川線面影橋電停から約200m 徒歩約3分

 


面影橋・姿見橋

2015-10-03 | まち歩き

面影橋は神田川中流域に架かる橋の一つで、古くは「俤の橋」とも称されていました。尾張屋版切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年/1857年)」には、「姿見橋」と記されており、後年に名を改めて面影橋になったと考えられています。一方で、面影橋(俤の橋)と姿見橋は、別々の橋であったという説もあります。例えば、歌川広重の名所江戸百景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」には、手前に神田川を渡す大きな橋が、遠方の小川に小さな橋が描かれており、一方の橋が「姿見のはし」で、もう一方の橋が「俤の橋」だったと考える説もあります。しかし、どちらの橋がどちらを指すのかは不明のままです。橋の名の由来も諸説あり、在原業平が水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた徳川家光が名付けたとする説、和田靭負(ゆきえ)という武士の娘・於戸姫が、身に起こった悲劇を嘆いて川に身を投げた時にうたった和歌から名付けられた等の説があります[1]

面影橋は、葉室麟著「おもかげ橋」(幻冬社)のタイトルの橋です。草波弥市と小池喜平次の二人は九州肥前蓮乗寺藩の元藩士。藩内の抗争に巻き込まれて国許を追われ、今は江戸で暮らしています。二人が江戸に出てきてから16年後、二人は、かつての上司の娘で、二人が想いを寄せていた萩乃という女性の護衛を頼まれます。士分を捨て商人となった喜平次の店の寮が俤の橋(面影橋)近くにあり、二人はその寮で萩乃を匿います。作品には、ところどころで俤の橋が登場し、姿見橋という呼び名があることも記されています。

面影橋は鬼平犯科帳シリーズ(池波正太郎著、文藝春秋)にも登場しており、第七巻に収録の「隠居金七百両」の中では、「江戸川にかかる姿見橋」として登場しています。江戸川というのは、神田川中流域の旧い名前で、あえて「神田川」とは記さないところが池波作品らしいと感じられます。第十巻「追跡」の中では、「面影橋」の名で登場しており、二十二巻の「法妙寺の九十郎」の章では、再び「姿見橋」の名で登場しています。

 

[1] 参考:面影橋の由来(新宿区 道とみどりの課設置案内板)

 

面影橋北詰 東京都豊島区高田2-1-15
都電荒川線面影橋電停からすぐ

 

 


牛の御前

2015-09-19 | まち歩き

隅田川の東岸、墨田区向島の墨田公園の一画に、牛嶋神社という神社があります。「牛の御前」というのは、この牛嶋神社の旧い名前です。現在の牛嶋神社がある墨田公園は、江戸時代には水戸徳川家の下屋敷があった地で、その頃の牛嶋神社(牛の御前)は、現在地よりも数百メートルほど北に在りました。この様子は、「隅田川向嶋絵図(安政三年/1856)」に描かれており、「牛ノ御前」は、「ミメグリ稲荷社(現三囲神社)」の北隣に、「弘福寺」の西隣に、そして「長命寺」の南側に川(現在は消失)を挟んで見ることが出来ます。

牛嶋神社の御由緒書きによれば、治承四年(1180年)に源頼朝が大軍を率いて下総国から武蔵国に渡ろうとした時に、豪雨による洪水のために(隅田川を)渡ることが出来ず、武将千葉介平常胤が祈願したところ、新明の加護によって全軍無事に渡ることが出来たため、頼朝はその神徳を尊信し、翌養和元年(1181年)に社殿を造営して、多くの神領を寄進させたとあります。「牛」と「頼朝」つながりということでは、小石川にある牛天神(現北野神社)にも似たような言い伝えがあり、この巡り合わせには興味をひかれます。

牛嶋神社の境内には、「撫牛」という牛の石像があり、自分の体の悪いところを撫で、牛の同じところを撫でると病気が治ると言われています。この撫牛の風習は、先に紹介した牛天神や各地の神社で見られるものですが、牛嶋神社の撫牛は、体だけではなく、心も治ると信じされており、また、子供が生まれた時によだれかけを奉納し、これを子供にかけると子供が健康に成長するという言い伝えもあります。

牛の御前は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)収録の「木兎引き(ずくひき)」の中に登場しています。北町奉行所の定町廻り同心・朽木勘三郎は、知人に誘われて出掛けた先で、見慣れぬ鳥を捕まえます。その鳥の手掛かりを探す勘三郎に、知人の旗本・大久保主計は、牛の御前で小鳥の品定めの会が催されるので、何か分かるのではないかと助言します。

 

牛の御前(牛嶋神社) 東京都墨田区向島1-4-5
東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅から約700m 徒歩約9分

 

 

撫牛