ごろりんブログ

雫石鉄也のブログ

はずかしい

2021年02月05日 | 作品を書いたで
 歯を磨いて顔を洗う。ひげも剃っておこう。さて、出かけようか。妻と軽くキスを交わして出かける。今日はY電気との商談の詰めだ。なんとしても商談成立といかねばならない。
 良い天気だ。「あ、おはようございます」隣のご主人だ。マスクをしている。しばらく見かけなかったが、感染して入院していたそうだ。
「もういいんですか」
「おかげさまで手術は成功しました。命拾いしましたよ」
 たいへんだな。オレはマスクしなくても外を歩ける。ありがたいことだ。一昨日受けた検査でも陰性だったし、オレには抗体が出来ているのだろう。
 アジアの一部地域の風土病であったその皮膚の癌がまん延して三年になる。あっという間に全世界に感染が広がった。ウィルス性の伝染する癌だ。日本では国民の三〇パーセントが陽性だ。
 空気感染する癌。初期症状は唇に小さな赤い斑点が出来る。それが見る見る大きくなり顔の下半分が赤くゆがむ。放置すれば死亡率八五パーセント。助かっても顔の変形はそのまま残る。手術すれば一〇〇パーセント助かる。極めて簡単な手術で入院不要日帰りで手術できる。手術しても残念ながら手術跡と顔の変形は残る。
 手術は保険が適用されるが、選択は自由だ。助かりたければ手術をする。死を選ぶなら手術はしない。顔が変わったままで生きたくない。そう思う人もいる。そんな人は死ぬ。その場合、病死ではあるが保険金は支払われない。
「それでは、リーチタイプのフォークリフト三台。受注します」
「で、いつごろ納車できます」
「一月の終わりですね」
「もっと早くならないかな。一月の二十九日に、手術なんだ」
「判りました。中旬までにはなんとかしましょう」
「頼むよ」
 Y電気配送センター長の中内氏は、前回の商談の時はマスクをしてなかった。今日はしている。感染して発病したのだ。もちろん私は商談中はマスクをしている。少しでも感染のリスクが減る。
 二月の中旬だ。一年中で最も寒い時期といえよう。雪がチラチラしてきた。
 Y電気配送センター。一月に納車したフォークリフトの使いごごちなどを聞きに来た。納車して一ヶ月。不具合はないか、使い勝手の悪い所はないか。実際に使っているエンドユーザーの声をしっかりと聞いて、設計開発製造部門に伝えて、より良い製品を生み出す手助けをするのも営業の大切な仕事だ。自社製品をほめられればうれしいが、私は可能な限り悪口を聞こうと心がけている。
 中内氏に現場に連れて行ってもらった。マスクは相変わらずしている。
「手術して顔が変わったのが恥ずかしくてマスクしてるんですよ」
 ウチのフォークリフトが働いている現場に連れて行ってもらった。ちょうどトラックからパレットを降ろし終えた車がある。
「おうい。元信さん」
 中内氏が運転者を呼んだ。
「はい」
 元信さんもマスクをしている。
「私は顔半分が金属になりました。ロボット顔が恥ずかしくて」
「どうですか。新しいフォークになって一ヵ月ですが」
「なかなかいいですね。前のより使いやすいです」
 元信さんは新しいフォークリフトをさんざんほめて仕事に戻った。
「カウンターバランスタイプのフォークも新車を検討してます。見積もりしてください」
「はい。判りました」
 
 今日はいい日だった。また次の注文がもらえそうだ。自分へのご褒美で一杯やって帰るか。
 いつもよりちょっと高そうな居酒屋に入る。マスクをする。私は感染もしていないし、手術もしていない。健常者の顔だ。でもマスクをする。
 マスクをしていない人が増えた。感染者の方が多くなって、顔が変形してる人の方が多くなってきた。
 普通の顔が恥ずかしくなった。だから私もマスクをする。マスクの人がだいぶん減ってきた。

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