Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

情報化社会のKKK ~国語教育・官僚・KY~

2008-02-20 17:41:10 | 人間発達論:言語・外国語・高等教育
本邦では「国語」が作文や感想文等の「文学」に偏向しており、論文・説明文等の「論理」や、論理を基礎とした「言語運用能力」に対する配慮が多少欠けているきらいがあると以前書いた。これを痛感するのが大学入試の現代国語や小論文である。初等教育でさんざん文学的観賞力を鍛えるように要請されてきたにも関わらず
大学入試となると突然に論理的思考力や言語運用能力を問われるようになるのである。(勿論、小中高でも説明文・小論文を読むのではあるが。)

これは実は「社会経済的な階層形成」にも寄与していると思われる。つまり大学課程を経るか経ないかによって、「感性の練成」を専ら受けてきた階層と、そうでない階層とが乖離してしまうのである。公務員試験などを見るとこの「感性のフィルタ」を抜き取るような作業に終始しているようにすら見える。数的処理から始まり数々の論理的思考力を問うような問題群に習熟するように脳が慣れてくると、一般民衆に多い「感性」に頼り「イメージ」に流され易い人々の気持ちはおそらくわからなくなるであろう。役所の窓口の人間には腹が立つ事が多いのだが、こちらの言葉を字義どおりに解釈し、余分な一切の解釈を許さない事が多いからだろう。庶民の気持ちを文字情報に置き換えて、文字上で解釈を加えるのが国会答弁に代表されるようなテクスト的なコミュニケーションで、市民としては何とも腹が立つのである。

「KY」と言うが、かつて重点的に行われたような「感性教育」がおそらく欠けている事もあるのではないか。携帯メールや電子メールなどのテクストだけをやりとりしていると、脳がテクストをリアリティーと見做し出すような気がしてならない。これぞまさに「現実の情報化」である。「情報化社会」とは現実の諸問題が一切情報に還元されてしまうことなのだと思う。電子機器を子供に持たせるよりも、古典や漢文や英文学等の鑑賞を通じて「人間」とは何か?について考えさせる方が優れた教育であると思う。

某所の書込みを読んでいて、文学的鑑賞と言う感性の世界と、論理的思考と言う論理の世界とが融合される言語の授業として「国語」が捉えなおされれば、と純粋に思った。

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