Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

教育臨床論① ~ゆとり教育世代~

2007-11-04 00:21:55 | 人間発達論:言語・外国語・高等教育
大学はさておいて専門学校での教育で強く感じる事がいくつかある。それは定式化された概念や定義を詳説し、それを積み重ねていく演繹的な教授・講義スタイルよりも、まずは情緒だと言う当たり前の話なのであるが、それを最近特に強く体感・実感したのである。

授業中は寝ている学生、ふてくされている学生、顔をそむけ話もろくすっぽ聞こうとしない態度の学生に対してかねてからコミュニケーションを取り、話を聞いてその行動の背景を少しでも明らかにしようと努めてきた積りである。「ゆとり教育世代はまったく学力がなく、理解力のなさだけならまだしも態度が悪い。」と言い切る世間の主張に対して何か違うものを「感じ取っていた」私は、とにかく限られた時間で話をし、また考えてみた。

まず考えられた事は、ゆとり教育世代と言うのは、その世代以前に対してカリキュラムが大幅に減らされた世代だと言う当たり前の事実の確認である。小中高校の時分を思い起こして見ても分かるように、規定されたカリキュラムに含まれている履修事項・必須事項以上の事柄をふつう人は進んで学習をしないものである。学問的関心の強い領域であれば別であるが、より進んだ上級課程の学習項目を自ら勉強すると言う事は何か特殊な機会が無い限りはおそらく期待出来ないであろう。例えば私はNHKのアインシュタイン・ロマンシリーズをTVに齧りついて見ていたが、別に量子力学と古典物理学を一生懸命に勉強しようとした、と言う事実はない。

これはすなわち次の事を意味する。ゆとり教育世代の学生たちに、それ以前のカリキュラム並の知識を期待する方が間違っていると言うことである。例えば私の前の世代のそのまた前の世代の・・・と時代を遡っていくと、漢文をそのまま記号なしで読めたと言うし、漢作文なども余裕でものした教養人がごく当たり前のように存在した時代があったと言うが、私はこれが出来ない。ダイガクと言うところも出てはみたが、第二外国語などは既に忘却の彼方である。ダイガクの第二外国語の主たる目標である「辞書をひける能力」も既に無くなっている。このような状態でゆとり教育世代だけを責めるのも、どうかと私は思った。私だけではなく、同世代の周囲の人間も異口同音に同じ事を訴えるのであるから、何をか況やではなかろうか。

次に「ゆとり教育世代」だろうが何だろうが、興味関心のある事柄には熱中できる能力をまだ持っている。自動車・プロ野球・TVゲーム・カクテル・ヘビーメタル・バイク・タバコ・パチスロ・漫画・・・どれもこれも真面目に暗記してテストされたら相当に難しい領域である。ここに含まれている学問的概念を列挙しただけでも大変である。流体力学・運動エネルギー・角速度・バイオメカニクス・スポーツ医学・液体の比重・音響学・真空管・量子力学の概念と電子回路・内燃機関・油圧系統・毒物学と致死量・副流煙と拘束性換気障害・・・。こうした概念の一部でも学生たちは自分の興味関心のある領域から吸収していく。すごい能力である。

実は「ゆとり教育世代」と言う名前を使う事は、彼らをスケープゴート化する陰謀か、またはスケープゴート化して自らの教授能力・教育臨床能力の研鑽を放棄するための言い訳か、メディアが部数や視聴率を伸ばすために仕組んだ工作か何かなのかも知れない。省みれば私も戦後の易化された日本語教育を受け、易化された高等教育を受けた世代である。ご先祖様の時代から考えたら、おそらくは隔世の感のある、極めて易しい部類の事柄のみを習ってきたに違いない。大学令には「学の蘊奥を究め・・・」とあるが、蘊奥のウの字も極めないうちに学位を頂いてしまい今となっては非常に恐縮している次第である。

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