Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

皇室の御静養地オランダ・王室はナチスとの関係を持っていた

2006-09-01 16:39:11 | 現代国学:政体(政府)・国体・皇統・伝統
日本の皇室がご静養にと選んだオランダ。世界的資産家ベアトリックス女王の元でロイヤル=ダッチシェルなど英国との繋がりもあり、またビルダーバーグ会議の開催地でもある。このオランダのベルンハルト殿下とナチスとの関係は問題視されているが、ベルンハルト殿下はかつてナチス=ドイツのヒトラー親衛隊(SS)のユニフォームを着ていた事が明らかになっている。

殿下の父の死の11日後の1934年の6月30日に、ナチス突撃隊(SA)が一斉に検挙または射殺された。SAは今や親衛隊SSと秘密警察ゲシュタポに取って代わられドイツは警察国家の様相を呈していた。大学には新たに「政治思想・態度検査」が導入され、当時のベルンハルトは合格不能な思想の所有者だったが、これを別の方法で回避する事にした。

ナチス準軍事組織である「エアスポーツ連盟」は若者がグライダー飛行等を楽しむサークルであるが、戦闘機パイロット要請を目論んでナチスにより始められた組織であった。ベルンハルトはこれに参加した。活動に参加する中で、とある失態から
連盟を辞める事になる。ベルンハルトには所属する組織も、バッジもユニフォームも無かった。また大学の法律専攻は極端に難しく、ナチスとの関連の無い人間にはさらに卒業が困難である事は間違いが無かった。

若いWalter Wunderlichは理想に燃えるナチス党員であり、SSのベルリン支部の自動車部門担当のリーダーであった。二人はSSの制服に身をまといスポーツカーラリーを週一回楽しんだ。

ヒトラーが総統兼首相として過去のどんなドイツ皇帝より強力なリーダーシップを発揮し始めた頃、ベルンハルトは何とかしてドイツ脱出を試みたが、ナチスへの抵抗勢力は共産党ぐらいしか無かった。彼は共産党嫌いであったので、別の手段で逃亡を試みた。

ベルンハルトはまずドイツの化学企業I.G.FARBEN社パリ支局に職を得る。元来は法律専攻であったが金融やビジネスを学ぶ事に情熱を注ぎ、仕事に没頭した。8時から7時までの勤務時間だったが、誰よりも早く事務所入りをし、誰よりも遅く帰宅した。パリ支社の管理者、パサールジュ博士はベルンハルトを前途有望な人材として認め、ベルンハルトを種々の訓練課程に送った。

I.G.FARBEN社は、1日1人辺り3マルクを技能の無い収容所労働者の労働に対する報酬として、また1日1人当たり1.5マルクを強制労働させられる児童労働者の労働に対する報酬として、それぞれナチス=ドイツのヒトラー親衛隊(SS)に対して支払っていた会社である事を付記しよう。

Preceding extract from:
Hatch, Alden, 'H. R. H. Prince Bernhard of the Netherlands; an authorized biography'. Subject : Bernhard Leopold, consort of Juliana, Queen of the Netherlands, Harrap, 1962.
Notes: A celebration was held at the Petersburg Hotel in 1937 with top Nazis and the IG Farben board and friends to celebrate 'Nazification'.

I.G. Farben paid the SS three marks a day for unskilled concentration camp workers and four marks a day for skilled. For child labour they paid the SS 1.5 marks a day.

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