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 人は分かっていないで納得する

 

 具体的な説明は 分かり易いのだが、全体と部分の関係から 簡単に部分の理が全体の理とは一致せず、成り立たない事の方が一般的かも知れない。

 マスコミは盛んに《専門家》を登場させ、ことの説明に当たらせる。

 普通はその権威と知識に圧倒され納得させられる。

   しかし、そこには論理的な飛躍のあることを (その経験をした者から言うと)専門家当人もも用いる人も 聞いて納得する人も分かってはいないかもしれない。

   社会にとって犯罪は取り除くべく始末した方が良いかも知れないが、始末したからと言って犯罪を生んだ社会の病根は何も変わってはいない。

死刑やテロとの戦いや経済制裁の正当性は 解決を先送りしているかもしれないのに正しく対処しているつもりになる。自分も例外ではない。

 物事は つもりや思いで解決しない。事物の関係を本来に変えるしかない。

 

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   手遅れの反省

 

 一般的に具体的な自然物を教材にして学習することが多い。

  今、反省しているのは切り取った自然物に対する認識が甘くわなかったか、と言う事である。

  大自然から切り取り学習するのだが学習した知識をどの程度元の自然に戻して一般化したか、である。

部分的な知識や法則は必ずしも全体とは一致せず、簡単に敷衍してはならない。

 

この事を良く理解しないまま、色んなことを教えてしまった。

 専門職の陥りやすいこの間違いを自分も気が付かぬままずーっとやっていた。

 今の行き詰まりを大いに批判しながら自分もその中にいしっかりいたことを、今にして思う。

  

 

   

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宗教や哲学以前の道理

 「地球や大自然が無ければ…」の知見をタダの1度も聞いたことも見たこともないことを考えると、宗教や哲学以前の常識的な道理なんだと思う。しかしこの常識的な知見は人間中心の人間が自然に獲得できる知見ではなく、むしろ現在の社会の仕組みはその感覚さえ喪失させかねない。

 だから、この知見は意図的に教育に持ち込み位置づけないと、社会はますます混乱し壊れないか?

 

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知らなかった当たり前の事

 

   《地球や自然が無ければ人は生きて行けないどころか存在しない。》 この事をただの1度も教わったことは無く、また長く教育の仕事に携わりながらただの1度も教えたことが無い。

  この知識は放っておいて身に着く知識だろうか?むしろ高等教育を受けるに従い 専門分野に分かれ、研究対象や感心・意識は地球や大自然から遠のいていくのが普通で一般的なように思われる。

   地球や大自然の全体から意識が遠のいた専門家によって社会がリードされ成り立っているとしたら、社会が今日のように行きづまりおかしくなるのは当たり前かもしれない。

  自分が上の知識を自覚したのは 定年で仕事を終えしばらく経った、65歳を過ぎてからだった。

    

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