世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
不思議!
どこで生きている人間も昔から 「世界の平和と繁栄」を叫び祈ってきたはずなのに、未だにその仕組み一つ出来ないのは何故なんだろう?
それが人類の現在における「到達点」と言ってしまえばその通りだが、これほど文明文化が発展しているように見える地上で不思議と言えば不思議である。
国連も機能していないようだが、偉い人たちの誰か一人ぐらい「ちゃんとした仕組みを作ろうよ!」の呼びかけぐらいあっても良いのに。
「ウイキャンチェンジ」のオバマさんだって「積極的平和主義」を高らかに唱える安倍さんだって、どうしてそんな当たり前の事が言えないのだろう?
要するに、国や地球儀は見えても世界は見えていないのだろう。
見えないなら、やたらな事は口にしない方が良い。
」
祈りのあり方
首相を先頭に閣僚が揃ってモーニング姿で靖国へお参りに行くが、元総理などは どうして一緒に行かないのだろう?
戦没者の遺族会の人たちもああしてぎょうぎょうしく(尊崇の念)でお参りするのだろうか?
(尊崇の念)であっても、祈りは偶像崇拝やパホーマンス的な形式を排した精神の問題として密かに務めるのが基本ではないのか。
宗教的な祈り方であっても 単一ではない。
罷り通る論理の飛躍
戦前は「戦争できる国」だった日本は戦争をし、戦後「戦争できない」国になって戦争をしていない。
戦争するかしないかの基準で言えばそう言うことになるが、「平和や安全」を基準にすると、戦後も現在も「平和で安全だ」と 誰が言えよう? にもかかわらず「平和や安全」の問題では即軍事になってしまうのは何故だろう?
偉い人たちが論理を平気で飛躍させている。
鈍い反応
人類にとって自然界の異変ほど安全を脅かされるものはないと思われるが、人類は全体的には それに反応していない。
それどころか 現実は 経済不振や敵国からの武力攻撃を最大の脅威と考えている国も出てきている。
とりわけ中国の軍事的脅威を振りかざして新たに軍事的安全保障を優先させるような対応は 世界的にも近隣諸国にあっても特別多いとも言えない。
国も環境に適切に反応することが必要だろうと思うが、その機能が劣化しているようで気がかりである。