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見識の境

昨日、国会の質疑応答を見ていて、今日の世界的な見識の到達点を見る思いだった。決算委員会だったので外交・経済・格差など国の内外の今日的な問題について質疑は展開された。その中で首相の応答ではっきりしていたのは、「共生と自立」の意味は従来の経済成長路線を基本にして、外交や国内問題の改善を図る。資源やエネルギー問題は更なる開発や倹約やリサイクルでカバーすると言う。これまで首相の見識には個人的に嫌いではないし、実際首相は見識と実権を持った最高の立場にある人でもある。しかし、首相の答弁は結局、無尽蔵な資源の開発を前提とした従来の産業構造の延長線で経済発展を考えているようだった。この経済観が行き詰まるのは自明なこと。私は地球の有限な資源をしっかり視野に入れた論文や話を未だ耳にしたことがないが、政治家だけでなくて良い、経済学者であろうと自然科学者であろうと芸術家であろうと、普通の庶民であろうと子供であろうと(子供は、思考が組織化されたり思考停止になっている大人や専門家より感覚的に気が付きやっすい立場にいるから)誰でもいいから、そんな当たり前の話が聞きたい。有限な地球の産業は地球的に人類の自給自足しか持続のしようがないはずだし、究極的には人類が食いつなぐ方法は人類が生み出したもので賄う他は有得ない。現在の経済成長は比例的に

(将来的な経済の意味)を失う。経済成長の概念の変更を前提とする以外、建設的に将来は描けないはずである。現代の政治・経済・文化の見識の基本的な境はここにあると思う。
 雑誌「世界」の1月号で私の好きな経済評論家の内橋克人さんが「共生と協同?」のテーマで論文が載るので楽しみにしている。是非地球環境や地球資源をしっかり視野に入れた未来の描ける産業・経済の提言をしてほしいと期待している。

世の中の行き詰まりを思わせる【ガタガタ】を【見識の境】を【越える好機】と考えたい。

にした論議や政策や文化的な活動もあまり意味がない。

今までの「価値観や行動様式の見識」が強ければ強いほど、新しい状況の「当たり前の見識」は見えにくく、それを物にしにくいのは、良くも悪くも人間の捨てにくい性質から来るのかもしれない

 

 

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