世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
教育(指導)の分かれ道
教育(指導)は学校の授業であれ何であれ同じように見えても指導によってつく力は全く異なる。教師(教える人中心か)児童(教わる人)中心かによって異なる。一般に指導者中心だと、効率的で指導の結果が分りやすいところがあるが、児童中心だと、見た目はそうは行かないことが多い。見かけを大事にする現在、多くの場合。教師中心と言ってもいい。
ただこの区別を教師でも保護者でも区別できない場合が意外に多い。だから、教育によって教わった物に自信をなくすと言う、非教育的な結果になることもままある。そしてその原因を指導された者のせいにする間違いすらある。
この間、近所の中学校の学校公開でも、障害者施設でのプール指導でも(熱心に)教師(コーチ)中心の指導が展開されていた。教わる子供の最重要な発達課題が明らかに(情緒の改善・自己コントロール・自信)にあるにもかかわらず。あのズレに気が付かないようだった。
この違いは、(指導者が己の立場)で子供のために指導し子供を変えようとするのか、(子供の立場に立って)、己の指導を合わせ変えるのか、その違いだと言ってもいい。
指導者の目的と、指導される子供や指導を委ねる人の目的と合致している場合はいいが、目的が合致してなくてもそのまま調整されないことがよくある。
教育観や人間観など指導者や指導される子供、委ねる人の人格に関わるから、重要なだけに逆に、意外と調整は難しい。
これは、一度己の今いるポイントから離れて、月から地球の様子を想像したり、自己中心から抜け出た現憲法感覚【他者から自分を見る感覚】を身につけるのと似ている。どれも、簡単ではない。
報道を見ていると、文科省の学力等の解釈や対策は完全に前者の立場からのもので、指導の技術としても安易過ぎる。現場の子供たちの多くには通用しないだろう。
この発想ではお金をいくらかけても、学力の低下に歯止めはかけられない。
国は学力低下の原因が全くと言って良いほど、分っていない。
この自己中心的な古い指導観や技術だけを国が中心で進めているのだから困ったものだ。これでは教育が今後良くなるとは到底考えられない。国の行政の中心が己の立場ばかり見て、子供の方を見ていないし、子供が分っていない 。「役人だから」では済まされない。