子どもが見えない

  今日、3月まで勤務していた学校の音楽会を見てきたが、(私なりであっても)子どもの姿(心や精神状態)が見えなくなっていることに気が付いた。
 全体的に落ち着いたいい音楽会だった。顔の良く知った子どもや先生方も沢山いたが、特に前半は子どもを見ているというより自分の心にどう映るかをを追っかけていた感じだった。
 現役のとき良くも悪くも、自分なりにこどもを見ると内面が感じられた。今日は自分の網膜に子どもは映り,声もしっかり聞こえるのだが、内面が浮かばない。半年という時間の経過を感じた。
 私がまだ30歳頃、父親が亡くなり、忌引きで10日間ぐらい学校を休み学校に復帰したときも今日と同じような経験をした。復帰し普通に授業もしたし校務もこなすが子どもや先生方の表情や動きを見ても内面のニューアンスのようなところが感じられない。何かガラス越しにみているようだった。
 どこかメクラ運転の感じ。社会復帰というか元に戻るのに1ヶ月近くかかった記憶がある
。そのとき、これはこの仕事の特徴だろうと思う同時に、メクラ運転もありうる仕事だと思った。多分、メクラ運転は周りの先生方や保護者は気が付かなかったのではないかと思った。子どもは言葉にこそしないが察知し反応してたのではないかと(今は思う。)スポーツ選手が何日か練習を欠かすと、即あの勘所を忘れ、取り戻すのにそれなりの時間がかかるのと同じようだ。
 まして今日は、半年振りに見るのだから、子どもが見えなくても当たり前だろう。(へんな言い方だが)音楽会を見ている時の脳裏は、周囲の人と同じような感じだった。多くの人の目が今の自分のように表面しか見えてないような気がした。
 こうして大人は子どもの心からから目が離れ見えていないのだから、今日の子ども達の問題も一向に解決の兆しすら見られないのもつい(仕方ないのかな)と思ってしまった。
 帰り道、子どもの見えない状態が、コンピーターにたとえると、バイト数が不足して、子どもが発する情報を処理できない状態と同じなんだと考えた。
 個別の個体である子どもの情報処理はマニュアルでは不可能だし、対応するにはそれなりの情報処理能力が必要になる。
 常識的には教育基本不を論議する与野党の議員さんも、文科省の大臣も役人も教育再生の委員さんも、子どもからの情報処理すること事体、難しい立場にいるといえる。資格のない人はいないが、(自分が趣味を離れ)私が他人におすしを握ったり、フィギアーで舞ってもろくなことはない。(踊らせる人も踊る人も最低のわきまえは必要だろうに.)
 子どもが見えなくては教育は始まらないし、子どもからの情報処理(能力)なくして教育再生なんてありえない。殆どありえないことをやろうとしている。目的が違うとしか考えられない。1持間の授業の指導計画でさえ、そのクラスの子どもが見えなくてはそれらしいものも書けない。最も最近は子どもを見ないで平気で机上で指導計画を書く人は増えている。(上からの指導優先させられるので) 本当は、あってはならないことだろう。それを国が率先し従来の教育行政で、そしてこの度の教育再生会議で範を示している。これも偽装教育のメカニズムの一端をあらわしている。【国は意識的なのではなく

、単にそのことに気が付いていないだけだとは思うが、困るものは困る。】

 

 

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