科学としての教育

 図書館もそうだが、教育は学問上は人文科学に分類される。多くの側面を持っているが(科学)の側面は無視できない。一般的に科学は進歩していると考えられているが教育はどうだろう? 教師として40年ほど経験してきた私の目には、日本の教育は学生時代勉強した教育史の年表を逆のぼっているというのが実感。
 昨日(11月3日)は文化の日。文化の中で教育は主要な役割を担っているが、教育の特に教育哲学に該当する基本的な考えは進歩どころか、後退して来たしこれからも方向が変わる兆しすら期待できないような感じだ。日本の文化は発展していると言えるだろうか?
 科学は事実と論理によって因果関係を求める。今日の教育上の問題は原因・結果の関係から生まれた。言い換えれば必然的な結果と言える。  
 教育が基本的に逆行しているから現場での矛盾は数限りないがいくつかを取り上げててみたい。
①まず教育は個々の成長・発達を土台に、その法則を前提にして成り立つものだが 子どもの環境や生活や教育そのものがこの原則を軽視している。子どもは生物・個体として生活・他者とのかかわり・意思決定・適期等の必要条件は他を優先するため実際には保障されにくくなっている。
②教育は心の通じ合いが決め手になるのだが、行政指導やそれにもとずく学校運営 もあって、教師は官僚的な職務を求められ、心の通じ合いそのものが難しくなっている。本来の教育関係は相互関係だがⅠ方向関係が求められ教育関係が成り立ちにくく、場合によっては壊されさえしている。
③テスト優先のため,教科として指導内容や組み立てが合理性を失ってきている。 例えば小学校では漢字・計算練習に大半の時間を使っているが国語教育や算数教育から見ると著しく合理性を欠き、子どもが学習意欲を失い学力低下するのはは当然のこと。この傾向は年々ひどくなっている。何事も基礎基本を軽視して力がつくはずが無い。勿論これも、世論と?行政指導の結果。【勿論個々の教師にも責任はある)学校訪問して読解の授業の無さは一昔前とは大違い。教室前の廊下を歩いただけで違いが分るほど。
③家庭の役割は生物としても育つ基盤なのだが、家族がそろったり、会話も物理的にすら難しくなってきている。経済社会を優先する大人の仕事や生活スタイルの変化により、家庭教育の質的な変化を余儀なくされている。 
具体的にあげれば数限りなく、解決の見通しも遠いが、教育を科学として見直そうとする芽がでてくれば時間はかかっても必ずいいほうに向かうと思う。 
 それにしても多くの学者や科学者は今、 何故黙っているのか?その道を選んだのは、お金や権威より(科学)に価値を見出したからではないのか?テレビに出てくる専門家や大学の先生の多くが因果関係を大事にする科学者には見えないことが多い。殆どが事実や論理より結論を正当化する弁舌士のようだ。口は早くて滑らかで相手を圧倒する。しかしあの姿勢は学問や科学する姿勢とは全く違う。哲学しない哲学者、科学しない科学者が多すぎる。これでは大事な今は、何の役にも立たない。 
 「学力テストで予算に差」東京足立区教委の方針だという。これを科学で見たらどうなるか。科学等と大げさに言わなくとも因果を考えたら、結果の予想は難しくはない。教育はは未熟な子どもを育てる営みでそのためにお金もかける。学力の低いところにお金を掛けるのが常識だろう  
 変な教育ママでもあるまいし、「テストの結果がよったらお金をあげる。」現役時代、保護者会などで「それだけはやめてほしい。子どもの目が勉強から離れ子どもがおかしくなる。」とお願いしてきた。それで失敗した子どもや親はいっぱい見てきたし、成功した例は一件も見たことが無い。成功した例があるなら今でも飛んで見に行きたい。酸素と水素で食塩ができると言うのと同じではないか。
 仮にそれによって平均点が上がったとしても、子どもはそこで何を学びどんな人間になるか。社会に役立つ人間に育つだろうか?こんなことでは教育委員会そのものが 問題になっているいじめもなにもっわっていないどころではなく、それを煽り立てることにはならないか?何故なら現在の問題は子どもの本質から目をそらし過度な比較競争が原因しているとは考えている人もいるはずだから。  
 それを今は学校や教師を指導する立場の教育委員会が税金を使い堂々とやる。今後の顛末は分らないが、科学どころの話ではない。教育バウチャーの同類の先取りだから「バカな」とかいって笑ってばかりもいられない。
 《どうかしているよ!?》
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