教育における責任

 今朝、NHKの政治討論会で教育基本法のことを取り上げていた。その中でいじめや履修問題など教育の責任の所在の曖昧さが指摘され、責任体制をはっきりさせようとの与野党が主張していた。 

 公教育で責任の所在をはっきりさせることは、、当然のこと。今の時流では「国の責任」をはっきりさせ、その責任を取れるような体制作りを図るだろう。 教育基本法の改正もその辺に目的がありそうだ。〈これはあくまで私見で断定しないが) 

 それはともかく教育上の責任を誰が取ろうと(教師であろうと学校であろうと教育委員会であろうと国であろうと)本当に責任を取れるだろうか?勿論、社会的な責任はどこかで取らなければならないが、実質的な責任はどこに帰すかを忘れてはならない。

 いじめによって子どもが自殺した時、その責任を誰が取ろうとも親の責め苦は、どんな責任にも比べられない。さらに自殺した本人が自ら死を選ばざるをえなっかた苦しみは責任とか権利という社会的な概念で表すことすらできない。

 だから、責任は子供に対し負うものでなくてはならない。普段の教育が子どもにしっかり目を向け子どもを守り育てるような体制を作ることが責任の中身でなくてはならない。

 実際はその逆で、事あるごとに現場の教師は上を見ざるをえなくなるよう求められてきた。今回のいじめや履修問題の対策もそこに帰すだろう。

 これは今始まったことではなく、私が教師になった40数年前から私の知っている限りどこの地域もどこの学校も上を向くような仕組みだった。現場ではひら目先生(目が子どもから離れ、管理職や教育委員会など上司に目を向ける教師)と揶揄されながらもその人たちが次々と管理職になり教育委員会などの行政指導を担当するようになった。

 私のこの表現はともかく、伝統的なものだったから立場を超え、誰でも知っている殆ど国民の常識だろう。勿論その大元が文部省(今は文科省)であったことは、中間機関であるどの教育委員会もその現実は肯定するだろう。(法律はそうなっていないから公的には否定せざるをえない。)

 今朝の討論会を見ていて、どの政党も観念的な言葉のやり取りで、現場、まして子どもの現状をまったくといって良いほ把握しておらず具体的に話せないでいた。

 先日のいじめで自殺した学校の校長先生の謝罪が形式的であることはテレビ映像でも見て取れた。子どもは大人の本音を素早く見抜く。謝罪した学校でいじめが事件後も続いていると報道されていた。当たり前といえば当たり前で、形式的な謝罪や責任の限界を誰もが知らねばならない。

 今日の風潮は戦争で亡くなった人たちや、いじめで自ら命を絶った子どもの無念さを今の我々大人が口先では分ったように言って誤魔化しても、本当にはほとんど受け止めていないようだ。いろいろな分野で形式的な責任を求め実質的には無責任体制が広がっている。

 

 今は自らも振り返り、見直し論じることが誰にも求められている時代ではないだろうか。子どもへの責任を誰もが問われている。

 

 

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