艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

データの考察

2008年05月24日 23時56分48秒 | 個人日誌
 食べたいものも、行きたいコトも、したいコトも、たくさんあり過ぎてとてもここでは書けません。

 「楽しい時間は早く過ぎてしまう」って言うじゃん。どのくらい早く感じるのかってことを考えてみた。
 最初の一杯目から三杯目あたりまでは、ホント一瞬。店に入って、三杯くらい飲むあたりまでは喉を潤しながら、うんうん頷いていて、時間にして一時間にも満たないのかもだけど、ものすごく早く感じる。
 今日見たものや聞いたもの、頭に浮かんだことを流れのままに話して。
 四杯目からはややスローペースに。ふと振り返る。一体いつからこうして飲んでいるんだろう?僕はなにを喋りたいんだろう?なにをしたいんだろう?
 普段ブログの中で書いているような、いわゆる迷いみたいなものではなくて、うまく言葉では表現できないのだけど、一緒に過ごせる素敵な時間を得た自分に酔ってるような感覚に陥る。

 そういえば、スタートレックで。あまりここの話とは関係ないけど。
 カウンセラートロイがデータの部屋を訪れると、データがヤカンに火をかけて、それをじっと眺めている。
 「データ、何してるの?」とトロイが尋ねると、データは首だけを声のほうに動かして「ヤカンに火をかけて水が沸騰するまでの時間を計っています。一度目は、ヤカンを見ないようにして。二度目にはヤカンをじっと見ながら」と答えました。
 「なにかの実験なの?」

 データは「ふん」とひとつ頷いて「人間は、時間が経つことを早いとか遅いといった表現をします。『楽しい時間は早く過ぎてしまう』というように。しかし時間というのは本来、一定のものであり、そこには早く過ぎる、遅く進むといったことはあり得ないはずなんです」

 ヤカンが水を沸騰させたことを示し、注ぎ口から湯気が立ち上りました。
 「一度目も二度目も同じ分量の水を入れて試してみました。どちらも正確に1分10秒で沸点に達しました。その過程において注意して観察しても、どちらがより早く過ぎる、また遅いということはありません」
 「人間は感覚的にそう思うこともあるのよ」

 誰もがそうであるように、一日の大半は仕事か、仕事に向かう準備と明日への備えに費やされる。自分が好きに使える時間はそれほど多くない。
 このときの時間の長い、短いは、絶対的なものであって。
 ただ、「過ごしかた」って考え方をすると、単に長いか短いでは測れないものになる。

 仕事はめんどくさいさ。イヤなことも多しね。自分に還れる時間ってのは一日のうちどのくらい?数時間しかない?もしかして何分もないんじゃあない?
 ポジティブな考え方をすれば、仕事の時間だって、自分を磨いて会社に貢献するための、もしくは周りの人間と協調するための、もっと穿った見方をするなら、給料を得るための、必要なものなんだ。
 それを自身の成長に欠かせないものと見做すのか、苦痛の時間と捉えるかは、けっこう日替わり。

 明日への準備も、明日転ばないために行う。黙々と自分の部屋を掃除するのも、洗濯をするのも(洗濯はキライじゃあないが。だって楽じゃん。服入れて洗剤入れてポンとスイッチ入れるだけ)、より快適に過ごすため。

 ただ、何年も経ったときに心に残っているのは。
 決して仕事でイヤな目にあったことや、洗濯機をゴワンゴワンまわしたことや、雨に降られたことなんかじゃあなくて。
 時間にすればほんのわずかなもののはずの、隣で笑って話して飲んでいたこと。

 僕がいつもいつも胸に繰り返し思っていて、札幌のことばかり考えているのは、たぶんそんな素敵な思い出があるからだろう。
 大学のときに知りあった友人と過ごしたことは、時間にしたら、札幌での大学時代は六年間あって、その後も一年、バイトなんかしながら暮らして。合わせて七年くらい。
 こっちで暮らして、まだ僕なんかは六年半くらい。それでも随分の時間を経て、こっちでの思い出のほうがだんだん多くなってきて。
 
 うむー、こんな話をするつもりじゃあなかったのだけど、えーと、何を書くつもりだったかな、最初は。
 でも、五、六杯目くらいはそんなことを考えたりもするな。

 二桁飲むころに、終電の心配をする。会話の合間で時計をチラリと見たりして。僕以外の人間が、僕の前でそんな素振りはして欲しくないけど、僕は考える。本当は終電なんかは無視したいところだけど。
 時間は…僕にはあるけど、いやになるくらいあるけど、時間を気にしないほうにこそ時限ってものはあるんじゃあないか?

 「楽しいと思える時間を過ごしていると、まだまだ話し足りないことを考えて、まだまだ一緒にいたいと思って、それが満たされないから、時間が早く過ぎるって感じるんじゃあないかしら?」
 
 こんなことはあまり書きたくないんだけど、僕は。
 いつまで続くかわからない時間に対して、ひとはその時間が素晴らしいものであっても、いつしか「ずっとこの調子で物事が続くのかな?」って考える。考えるようになる。
 よくある、気の合う友人といても「なんか面白いことないかな~」ってことや、仕事しながら「いつまで働くんだろう」ってことや、恋人といても倦怠感を感じるときとか、考えた末の決断でも「これで良かったのかな?」って迷うこと。

 振り返ったときに、おおよそ過去ってものは、多くの時間を占めていた変化のない日常のことは忘れて、そのときどきの、稀有だと思われる現象を記憶に留める。それをふとしたときに思い出して「きっと良かったんだ」と信じる。
 信じるっつーか、それはそれでホントにいいことなんだけど。

 あーん、もう!なにをしても迷うなら、そのときそのときに自分がより良いと思えることをするしかないじゃあないか!

 誰もがそうであるように、自分に語りかける時間と言葉があまりにも多すぎる。そのときそのとき思ったことの全部をひとには告げられない。
 だけど、それをするためには?全部じゃあなくても少しでも伝えるためには?
 明日もあって、そのまた明日もあって。そして青空のもとでお互い笑顔でいられる、夜にはビールで乾杯できるっていう、そういう時間が訪れる。そう心に言い聞かせながら生きていくしかないじゃあないか。

 (作者の都合で、「三国日誌 補足(仮)」は休載させていただきました)