昨夜、あさいさんから電話がきて。
ちょうど、「晩ご飯でも食べようかな~」と一人部屋でウロウロしていたとき。この一ヶ月くらいは週に四日は鍋をしていて、その食材買い足し買い足しのループも、この晩で終わりかな~なんて考えていた。
当たり前だけど、僕が予言をしたとか、予知能力があるってわけじゃあないくて。
今日はなんとなくあさいさんのことを考えていたので、着信を見ながら「え?本当に?」とびっくりした。
常に誰かのことを考えて、日常を過ごしているので、たまたまそのときに誰かから連絡があると「こっちからも連絡しようと思ってたところ」って思うようなこと、誰にでもあるよね。
世間はゴールデンウィークだな~。羨ましい~休みた~い。休みたいどころか仕事したくないっす。もうどんだけ仕事キライなんだか。
夕方、会社に戻ってきて書類を片付けたり、明日のためにお客さんに電話してアポどりなんかをしていると(このアポどりが一番イヤ!営業するためにかけまくる、しかも会ったこともない人間に。しかも向こうは何度も同じ話をきいているのに)、とてもじゃあないが気分が悪くなってきて。
そんなときは、チームのみんなで適当なことを喋りながら、なるべく仕事のことを頭から追いやる時間を作る。
作るというか、自然と、そういうどうでもいい会話が出来るような時間を求めてるんだろうな。みんなして。
最近の僕は、なかなか契約がとれなくて。それをしんみりと語ってしまってもしょうがないし、しんみりするのは、たまにこのブログの中だけでも充分なくらいとも思うしで、わりと自虐的に「こんなんとれるわけあるか~」と笑いながら話す。
まぁ、そんな強がりなんかは、周りのひとびともそろそろ気がついてきたようで「だいじょうぶですよ、ちゃんとやってるじゃあないですか」と半分慰めモード。
うむー、弱きなときに慰められるのは、なんだかかわまれてる感もあってキライじゃあないし、調子のいいときも褒められるのは「もっともっと褒めて!」ってタイプだから、どんどんチヤホヤされたいところだけど…もしも、周りにこんな自分みたいなやつがいたら、ちょっとウザイな。
仕事の本質ってやつは、考え方ひとつで変わるもんだ。
それこそうまくいっているときなんかは「ひとのためになる仕事なんだ」という自負が出てくるけど、反対のときには「こんな仕事、誰が喜ぶんだ?」という疑問ばかりが頭にもたげてくる。
一体、何のために?
ただ、給料をもらって食べるために?そのためにひたすら客を潰すのか?
いいや、営業って仕事は、お客さまによりよいものを提案して、それを気づかせてあげるためのものだ。こちらが提案をしなければ、それを知らずに損をしてしまうかもしれない。
会って、説明をして、契約になるかどうかは状況によって変わってくるだろうけど、その確率を上げて、数字を上げるために。それがお客さんのため、会社のため、自分のためとなるように。そして、自分の周りの人間にもいい影響を与えるように。
かるく笑いとギャグを交えながら「ああしてみればいいんじゃあない?」「思い切ってこういうプレゼンがどうだろう?」みんながアドバイスをしてくれる。
僕の仕事は、今、こういう精神状態だからだろうか、あまり好きなしごとじゃあない!と考えているのだけど、このチームのひとたちはとても素晴らしいです。
いつもいつも仕事は残業なんだけど、もちろん僕だけじゃあなくて。
帰りのロッカーで。
チームの稼ぎ頭で年上の人は、いつも上司が帰ってしまったあとも、チームの人間が残っていれば、ずーっと一緒に残っている、そんなひとで。
「今がツライ時期かもしれないけど、ドッピオさんだけじゃあないですよ。僕もいつまでもつかなーって考えてます」
そーだよなー。僕はこのチームに来てまだ一年。このひとは何年も同じ仕事をしてきて、無間地獄に陥ってるような感覚ったら、僕の比じゃあないだろう。
ツライ時期なんかだれにでもある。「そこから堕ちて諦めるのは簡単だ」なんて人はいうけれど、堕ちるのはけっこう難しい。しがみつくのも難しい。昇っていくのもキツイ。どこをどうやっても楽なことなんかない。
であれば、楽だわ~って、もう自分に言い聞かせて気持ちを上げていくしかないじゃあないか。
「少なくともあと半年はなんとかしてみようかなって思います」と、そのひとが。「俺だってすぐには辞めてたまるもんですか!」と、威勢のいいことは言ってみたものの、これからどうすればいいんだろう…。
ほぼ毎日「もう無理!」って思ってるのに。
気持ちが盛り上がらないときにブログを書くと、こんな内容になりがちなので、そんなときには書かないし、書こうって気も起こらないのだけど、それでも意味があるんじゃあないかな?と思って、イヤイヤ書きます。たまに。
過去を思い出してみるとき。
過去にさー、「ああ…あのときこうすれば良かったのかな」とか「どうしてあのときそばにいてあげられなかったんだろう」と、延々と今さら意味もないのにグルグルと考えること、誰もがあります。
そんな忘れたい、やりなおしたい時間の記憶って、強烈なものとして心に残っているから、おそらく一生引きずりながら生きていく。
もう、現段階で取り返しのつかないものなんだけど、それを回避する方法が「書いて残す」ってことなんじゃあないかと。(今思った)
だいたい、記憶に残るほどの後悔ってものは、その物事の結果だけが繰り返し繰り返し思い出されて、勝手に頭痛を引き起こしたり、胃に穴を開けたりするもんだけど(おかげさまで僕は頭痛もないし、胃に穴もありません。なんだかんだいってけっこう楽天家なんだろうと思う)、記憶の中では結果に至るまでの過程ってやつは、すっぽりと抜け落ちていることが多い。
つまりは「ああ…あのときこうすれば良かったのかな」という後悔には「なぜ、こうすることができなかったのか?」という理由の部分の思考が欠落しているし、「あのときそばにいられなかったのはなぜだ?」とその場での前後の行動を思い浮かべることが、時間が経てば経つほどに薄れていく。
その記憶を補うのは、強力な意志でも記憶力でもなくて、その瞬間に書き残した記録しかない。うん、まぁ、絵でも歌でもいいんだろう。
いい思い出も、悪い思い出も、時間が経てば、その周辺の記憶ってものはじょじょにうすぼんやりと輪郭を留めることができなくなって、一番「考えやすい」形になって残ってしまうことが多い。いいことはより良い思い出に。悪いこともより悪い方向へと。同じように。
それは誰にとっても、生きていくにあたって必要な能力であるから、悪いものではないんだけど。(と、どこかの学者か本が言ってた)
運命ってものを信じてはいない。だから「どうあろうと自分の人生じゃあないか」「選ぶのは自分だ」とか「ひとは流されていくしかない」とか、そんな、それこそどっかの歌の歌詞にでてきそうな人生観は、僕にはまっぴらで。
本当は、「ときに選び、ときに選ぶ余地もなく」ってもんだろう。
その、なにかを思い出すときに「なぜ、その結果に至ったのか?」と考えることが重要で、結果だけをみて「勝った負けた」は、それこそ夜にテレビをつけて、野球の試合をダイジェストでみることもなく、ただ「4-2 巨人勝利」って事実だけを見ているのと同じだ。
なにも、試合の一回の表の第一打席から、もしくはそのまえのブルペンでの先発投手の投球の様子から、今シーズンに向けての各球団の補強から、全部を記録しろってことじゃあない。記憶するのはハナから無理だし。
それでも、自分の考えたことや、感じたことを、拙い文章であっても断片的に残しておけば、出来事を思い出すときに、その苦しい思いの答えはその中にでもあるような気がする。
序盤の、あさいさんから電話があった話や、仕事の話とは随分とかけ離れましたが。
何がいいたいのかというと、別にオチはない。
以前にも書いたけど、僕は一時期ず~っと日記をつけていた。その日あったことを簡潔に。簡潔にっていうか、ただ、やれ誰と飲んだだの、何時から何時までバイトだっただの、天気はどうで、部室に誰がいただの。
大半はそんな記述で、ときおり思ったことがあるときだけは、このブログのように無駄に長い文章になってたりもするけど、短い文章のなかでも「あ!このときはこうい考えかたをしていたな」ってことがわかる。そしてそこに書いていなくても、この飲み会では誰々がいる席に座って、あんなバカな話ばっかりしていたな~ってことを思い出す。
その日記は今ではほとんど取り出すこともなくなって(だいたい何年分あるのか?ものすごい量だ)読み返すこともないのだけど、たぶん開いたときには、膝をついて立てなくもなりそうだけど、ないよりあったほうがいいってもののように思う。
ちょうど、「晩ご飯でも食べようかな~」と一人部屋でウロウロしていたとき。この一ヶ月くらいは週に四日は鍋をしていて、その食材買い足し買い足しのループも、この晩で終わりかな~なんて考えていた。
当たり前だけど、僕が予言をしたとか、予知能力があるってわけじゃあないくて。
今日はなんとなくあさいさんのことを考えていたので、着信を見ながら「え?本当に?」とびっくりした。
常に誰かのことを考えて、日常を過ごしているので、たまたまそのときに誰かから連絡があると「こっちからも連絡しようと思ってたところ」って思うようなこと、誰にでもあるよね。
世間はゴールデンウィークだな~。羨ましい~休みた~い。休みたいどころか仕事したくないっす。もうどんだけ仕事キライなんだか。
夕方、会社に戻ってきて書類を片付けたり、明日のためにお客さんに電話してアポどりなんかをしていると(このアポどりが一番イヤ!営業するためにかけまくる、しかも会ったこともない人間に。しかも向こうは何度も同じ話をきいているのに)、とてもじゃあないが気分が悪くなってきて。
そんなときは、チームのみんなで適当なことを喋りながら、なるべく仕事のことを頭から追いやる時間を作る。
作るというか、自然と、そういうどうでもいい会話が出来るような時間を求めてるんだろうな。みんなして。
最近の僕は、なかなか契約がとれなくて。それをしんみりと語ってしまってもしょうがないし、しんみりするのは、たまにこのブログの中だけでも充分なくらいとも思うしで、わりと自虐的に「こんなんとれるわけあるか~」と笑いながら話す。
まぁ、そんな強がりなんかは、周りのひとびともそろそろ気がついてきたようで「だいじょうぶですよ、ちゃんとやってるじゃあないですか」と半分慰めモード。
うむー、弱きなときに慰められるのは、なんだかかわまれてる感もあってキライじゃあないし、調子のいいときも褒められるのは「もっともっと褒めて!」ってタイプだから、どんどんチヤホヤされたいところだけど…もしも、周りにこんな自分みたいなやつがいたら、ちょっとウザイな。
仕事の本質ってやつは、考え方ひとつで変わるもんだ。
それこそうまくいっているときなんかは「ひとのためになる仕事なんだ」という自負が出てくるけど、反対のときには「こんな仕事、誰が喜ぶんだ?」という疑問ばかりが頭にもたげてくる。
一体、何のために?
ただ、給料をもらって食べるために?そのためにひたすら客を潰すのか?
いいや、営業って仕事は、お客さまによりよいものを提案して、それを気づかせてあげるためのものだ。こちらが提案をしなければ、それを知らずに損をしてしまうかもしれない。
会って、説明をして、契約になるかどうかは状況によって変わってくるだろうけど、その確率を上げて、数字を上げるために。それがお客さんのため、会社のため、自分のためとなるように。そして、自分の周りの人間にもいい影響を与えるように。
かるく笑いとギャグを交えながら「ああしてみればいいんじゃあない?」「思い切ってこういうプレゼンがどうだろう?」みんながアドバイスをしてくれる。
僕の仕事は、今、こういう精神状態だからだろうか、あまり好きなしごとじゃあない!と考えているのだけど、このチームのひとたちはとても素晴らしいです。
いつもいつも仕事は残業なんだけど、もちろん僕だけじゃあなくて。
帰りのロッカーで。
チームの稼ぎ頭で年上の人は、いつも上司が帰ってしまったあとも、チームの人間が残っていれば、ずーっと一緒に残っている、そんなひとで。
「今がツライ時期かもしれないけど、ドッピオさんだけじゃあないですよ。僕もいつまでもつかなーって考えてます」
そーだよなー。僕はこのチームに来てまだ一年。このひとは何年も同じ仕事をしてきて、無間地獄に陥ってるような感覚ったら、僕の比じゃあないだろう。
ツライ時期なんかだれにでもある。「そこから堕ちて諦めるのは簡単だ」なんて人はいうけれど、堕ちるのはけっこう難しい。しがみつくのも難しい。昇っていくのもキツイ。どこをどうやっても楽なことなんかない。
であれば、楽だわ~って、もう自分に言い聞かせて気持ちを上げていくしかないじゃあないか。
「少なくともあと半年はなんとかしてみようかなって思います」と、そのひとが。「俺だってすぐには辞めてたまるもんですか!」と、威勢のいいことは言ってみたものの、これからどうすればいいんだろう…。
ほぼ毎日「もう無理!」って思ってるのに。
気持ちが盛り上がらないときにブログを書くと、こんな内容になりがちなので、そんなときには書かないし、書こうって気も起こらないのだけど、それでも意味があるんじゃあないかな?と思って、イヤイヤ書きます。たまに。
過去を思い出してみるとき。
過去にさー、「ああ…あのときこうすれば良かったのかな」とか「どうしてあのときそばにいてあげられなかったんだろう」と、延々と今さら意味もないのにグルグルと考えること、誰もがあります。
そんな忘れたい、やりなおしたい時間の記憶って、強烈なものとして心に残っているから、おそらく一生引きずりながら生きていく。
もう、現段階で取り返しのつかないものなんだけど、それを回避する方法が「書いて残す」ってことなんじゃあないかと。(今思った)
だいたい、記憶に残るほどの後悔ってものは、その物事の結果だけが繰り返し繰り返し思い出されて、勝手に頭痛を引き起こしたり、胃に穴を開けたりするもんだけど(おかげさまで僕は頭痛もないし、胃に穴もありません。なんだかんだいってけっこう楽天家なんだろうと思う)、記憶の中では結果に至るまでの過程ってやつは、すっぽりと抜け落ちていることが多い。
つまりは「ああ…あのときこうすれば良かったのかな」という後悔には「なぜ、こうすることができなかったのか?」という理由の部分の思考が欠落しているし、「あのときそばにいられなかったのはなぜだ?」とその場での前後の行動を思い浮かべることが、時間が経てば経つほどに薄れていく。
その記憶を補うのは、強力な意志でも記憶力でもなくて、その瞬間に書き残した記録しかない。うん、まぁ、絵でも歌でもいいんだろう。
いい思い出も、悪い思い出も、時間が経てば、その周辺の記憶ってものはじょじょにうすぼんやりと輪郭を留めることができなくなって、一番「考えやすい」形になって残ってしまうことが多い。いいことはより良い思い出に。悪いこともより悪い方向へと。同じように。
それは誰にとっても、生きていくにあたって必要な能力であるから、悪いものではないんだけど。(と、どこかの学者か本が言ってた)
運命ってものを信じてはいない。だから「どうあろうと自分の人生じゃあないか」「選ぶのは自分だ」とか「ひとは流されていくしかない」とか、そんな、それこそどっかの歌の歌詞にでてきそうな人生観は、僕にはまっぴらで。
本当は、「ときに選び、ときに選ぶ余地もなく」ってもんだろう。
その、なにかを思い出すときに「なぜ、その結果に至ったのか?」と考えることが重要で、結果だけをみて「勝った負けた」は、それこそ夜にテレビをつけて、野球の試合をダイジェストでみることもなく、ただ「4-2 巨人勝利」って事実だけを見ているのと同じだ。
なにも、試合の一回の表の第一打席から、もしくはそのまえのブルペンでの先発投手の投球の様子から、今シーズンに向けての各球団の補強から、全部を記録しろってことじゃあない。記憶するのはハナから無理だし。
それでも、自分の考えたことや、感じたことを、拙い文章であっても断片的に残しておけば、出来事を思い出すときに、その苦しい思いの答えはその中にでもあるような気がする。
序盤の、あさいさんから電話があった話や、仕事の話とは随分とかけ離れましたが。
何がいいたいのかというと、別にオチはない。
以前にも書いたけど、僕は一時期ず~っと日記をつけていた。その日あったことを簡潔に。簡潔にっていうか、ただ、やれ誰と飲んだだの、何時から何時までバイトだっただの、天気はどうで、部室に誰がいただの。
大半はそんな記述で、ときおり思ったことがあるときだけは、このブログのように無駄に長い文章になってたりもするけど、短い文章のなかでも「あ!このときはこうい考えかたをしていたな」ってことがわかる。そしてそこに書いていなくても、この飲み会では誰々がいる席に座って、あんなバカな話ばっかりしていたな~ってことを思い出す。
その日記は今ではほとんど取り出すこともなくなって(だいたい何年分あるのか?ものすごい量だ)読み返すこともないのだけど、たぶん開いたときには、膝をついて立てなくもなりそうだけど、ないよりあったほうがいいってもののように思う。