お絵かきを初めてもう10年がたった。
といいつつも、毎日絵筆を持って
暮らしているわけではない。
あちこちうろうろ歩いて写真を撮ったり、
山の楽しさを味わったりしている合間に、
時おりうんとその世界にはまり込んだように
お絵かきさんになったりするのだ。
doironの場合、絵だけじゃなくて、
言葉も書いたりする絵手紙風の作品が
ほとんどなんだが、
凝り始めると心がそっちに
はまって行ったりするわけだ。
歩いていたらいろんなところに目が行ったり、
興味をもったりするのだが、
実はこんな絵手紙の時間の中にも
思わぬ心の広がりがあったりするんだ。
たとえば、絵を描くときには、
その対象物の世界がとっても気になるし
そして言葉を決めるときには、
思わぬ深い心の世界を旅するときだってある。
普段何気なく思っていることでも、
言葉にしようとすると
これがとってもむつかしいのだ。
世の中を散歩するように、
自分の心の中を散策するような
そんな気持ちになったりする。
意外に人の心の中には、
名所があったり、過去の引きずりが
あったりするわけだ。
それを言葉にするのは何度も言うが
とてもむつかしい。
そんな複雑な心の中を、簡単な言葉で
表せればいいのだが、
これがねえほんとにむつかしいのだ。
今まで考えた言葉でも、絵の横に
自分なりにうまくかけたな
という言葉もいくつか心の中に
あったりする。
例えばその例を挙げてみると、
ちくわの絵を描いた時だ。
作った言葉がこれ。
「これをつまみに さあ一献
それを竹輪の友という」
ちくわをつまんででも
お酒を飲みながら楽しい時間を
過ごせる友達というのはありがたいものである。
「竹馬の友」という幼いころからの
友達というのとはちょっと違う
「竹輪の友」っていうのは、
我ながらよく考えたものだ。
それからこんなのもある。
トマトの絵を描いた時の言葉だ。
「上から読んでも 下から読んでも
『できる やる気で』」
とまあこれはトマトの名前が
そんな言葉であるところから
浮かんだ言葉だ。
なんでもやる気を出せばできるんだよ
というのを回文にできた時は、
やったーと飛び上がるほど
うれしかったなあ。
またそれらとは逆に
言葉が先に決まったというのもある。
その一番最初の例をあげると
「やるときゃやる 寝るときゃ寝る」
仕事を退職し人間こんな風に
オンオフきっちりできればいいなあ
と思っていた時代に持っていた言葉。
それを書くなら、この絵は
何だろうかと考えた時に、
寝ている信楽焼の狸がいいなと思い、
わざわざ信楽まで見に行った
という作品だ。
お絵かきとうろうろが
合体した作品ということになる。
そしてこんな言葉もある。
「夢に果て無し こころに限りなし」
働いている頃に秘書をやっていた時があり、
その時のTOPを見ていて
いつも思っていたことだ。
これはもう書くものは決まっている。
果物の「なし」である。
早速スーパーに買いに行ったものだ。
それから長い間かかって生まれた絵もある。
デラウェアのブドウを描いて、
さあてなんて言葉を描こうか
悩んでいたことがあったのだ。
ブドウなんで、みんなで力を合わせて
とか小さな一粒でも大きなごちそう
とか考えていたのだが、
ある時街道を散歩している時に、
寄り道を見つけて歩き、
楽しかったことがあったので
そんな時に一人だから自由でいいなあ
と思った言葉が、絵がつながった。
ブドウを房から外して一粒転がし、
言葉に「時には 一人に なりたいこともある」
と記入したものだ。
こんな風に、いろいろ描いた絵を
見てみると、それを描いた時の
自分の気持ちがよくわかったりするので、
なんかとっても楽しいものだ。
最近はコロナだし、寒いし、
あまり外には出かけず
絵を描いている日が多い。
そんな中で、自分の中のどんな自分と
出会えるか、まあこういう
心の中の旅のようなところを
お絵かきを通して
楽しんだりしている最近だ。
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