イ・ビョンホンssi主演の映画、『クァンヘ、王になった男/광해,왕이된남자』(チュ・チャンミン監督)は、6/14、クランクアップし、この秋、秋夕(チュソク)連休に、封切りされる予定となりました。
ビョンホンssi初の史劇とあって、話題になっています。
ティーザー動画も公開されました。
公開に向け、現在、編集作業の真っ最中だそうです。
主演のイ・ビョンホンssi、リュ・スンリョンssi、ハン・ヒョジュちゃんのスチール写真も…
朝鮮時代、最もドラマチックな君主と言われる「光海君(クァンヘグン)」と瓜二つの賎民(チョンミン)のハソン…
在位8年、毒殺の危機に置かれた王の代わりの人物を探していたホギュン(リュ·スンニョン)が、ハソンと出会う。
ハソンが代理王役を引き受けた、史料から消えた15日間を描くストーリーだそうです。
何が、ドラマチックな君主だったのでしょう?
早速、リサーチ!!
第15代王として光海君は、王位につきましたが(在位:1608年~1623年)、のちに宮廷を追放され廃位させらた為、尊号がありません。
同じように尊号を持たない、暴君として有名な第10代王燕山君(ヨンサングン)とは、事情は大いに違い、歴史的な激動の時代に併せ、宮廷官僚たちの派閥抗争に巻き込まれ、1623年廃位させられ、江華島(カンファド)へ追放。
更に、十数年後に済州島(チェジュド)に移され、1641年に66歳で死去しました。
第14代王宣祖(ソンジョ)に嫡子がいなかった為、庶子の光海君が、世子(セジャ)となります。
ちなみに実兄の臨海君(イムヘグン)は、気性が激しかった為、跡継ぎにはふさわしくないと排除されたそうです。
しかし、1594年に宗主国である中国、明への世子冊封の要請をするも、次男である事を理由に拒絶されます。
更に、1606年、宣祖が新しく迎えた中宮、仁穆王后(インモクワンフ)が嫡子である永昌大君(ヨンチャンデグン)を出産。
この事で、世子擁立を巡って、光海君派と永昌大君派との派閥争いとなります。
また、この頃の朝鮮は、1592年に始まる秀吉の出兵(文禄の役=壬辰倭乱、及び慶長の役=丁酉倭乱)で、国内が大混乱となった時代でもありました。
1608年、宣祖が病のうちに急死…永昌大君はわずか2才であった為、現実的選択の中、光海君が王位に就きました。
即位した光海君は、破綻した国家財政の再建と現実的な外交施策を展開し、また派閥争いの終結に尽力します。
しかし、派閥パワーを押さえ込む王権強化の為には、大々的な粛清を実施するしかなく、反対派閥をはじめ、兄弟にまで及ぶ大粛清が1615年まで行われたそうです。
映画は、ちょうどこの頃にあたりますね。
幼い永昌大君も、壬辰倭乱で加藤清正の軍の捕虜となっていた臨海君もまた、釈放された1608年に、配流され、翌年謀殺されました。
宗主国の明と、その弱体化に乗じて勢力を拡大してきた後金(ヌルハチが建国、のちの清)に対し、二極外交を展開。
また、日本(徳川幕府)とは1609年に和約。
国政では、税制に大同法を導入し、財政改革を行うが、これは、重税で庶民を苦しめる事に…
こうした光海君の政策は、結局、光海君を支援した大北派以外の他の派閥や他の王族や民たちの恨みを買う事になりました。
1623年、光海君は自身の甥にあたる綾陽君(ヌンヤングン)と西人派を中心とした勢力によって、宮廷を追放し廃位させ、擁立した綾陽君を第16代王仁祖(インジョ)として即位させました。
この「仁祖反正」と呼ばれるクーデターで、今度は大北派が粛清され、謀殺された臨海君らの名誉回復が行われました。
政権を握った西人派ですが、光海君のとった二極政策を排し、親明反後金政策を推進しますが、これは時流を把握しておらず、後に、丁卯胡乱・丙子胡乱と相次ぐ後金の侵攻を受ける事になりました。
この辺りの事は、ドラマ『推奴(チュノ)』の時代背景となります。
王と言う権力の頂点であっても、混乱の時代では、常に危ういポジションであった事を知って、この映画を見ると、影武者を必要とする背景も納得できます。
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