しろくま

軟い雑感、とりとめなく。

八だから

2010-08-06 | TV, 映画, DVD
リチャード・ギア出てた。
そして、ラプソディ※

八月の狂詩曲/黒澤明


親はハワイ。ばあちゃんの兄・錫二郎さんの所。
ばあちゃんと孫4人が留守番。

子役・演技って難しいし
アニメだったならとも思ったが
黒澤爺さん、孫世代で撮りたかったんだろう。
(でも、1990年の小5~6年位の男の子、ジョン・ウェインなんて名前出すかなあ?^^)


「むかーし、昔
あの山の向こうで ピカがあってな…」

ラプソディ/狂詩曲 幻想 戯画
最初の長崎のカット。
焼け曲がったジャングルジム、石像、慰霊碑
レクイエム映画だと思っていた…

ハワイから親も帰ってきて、
日系2世の甥クラークさん(R.ギア)もやってきた。
パイナップル農園/クラークさん/ばあちゃんのご機嫌を取ろうとする大人たち。
そのまま日米貿易・外交がダブる

打算と思惑はどうでもいいばあちゃんとクラークさんは、
満月の下で握手 幻影ではないだろう。
冒頭、調子っ外れだったオルガンも直っていた。

ピカの後に目ン玉ばっかり描いていた鈴吉と河童の滝壺、
子供たちとクラークさんのところに 錫二郎さんの死の知らせ。

レクイエム?
そんな(やさしい)もんじゃない!

「ピカじゃ!」夜の雷、鬼気迫るばあちゃん。
そしてラスト: 雨の中、アニメでは越えられない* 実写の情念

ラプソディ/戯画だからこそ、見ていられたのかもしれないけれど
そこで流れる ♪野ばら (♪We'll Meet Again、っぽい)
八月だけど 背筋が凍った。

ラストはショックだったが、全体は剥き出しの傷口を並べた主張でなく、
むしろ、言えないもどかしさのような感じを受けた。
そして、自制心みたいな目も必要な気がした。テーマ/願いを見失わないように。
軍の言い訳/正当化/自己陶酔用の戦争“感動”巨編を量産/上書きする国にならないためにも。


でも、なにより怖いのは (8/7)
この画ではない。
言葉/理論武装でも決してつくろえない、“生”の画の方。
(知らないわけがないけど、ラプソディにこだわったのだろう)



おまけ
幻想と交錯するエンディングのおどろおどろしさは、
花火、件kudan、鯉、冥途…内田百とオーバーラップするし、
ほかにも、落雷の二本杉、“黙って”話をするおばあさん、滝壺で遭った蛇の目のエピソードなどは
ばあちゃん語りの土着の神秘さ、不思議さをうまく出している。
夏休みとばあちゃん家は玉手箱 が根っこだろう。


※9月はPrelude
 10月は黄昏の国^^

*シーンはあるが演技はない
 はめ込み、アフレコ(≠字幕)前提だから


一年たったら、(8/6/11)
別の感じ・思いが出た。
作品って時間が固定化されているから、時の流れ・変化のなかでものさしになる。
そういった意味で、作品は生きている。