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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞  219

2024-03-16 09:58:44 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究27(15年5月実施)
   【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
    参加者:S・I、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:S・I  司会と記録:鹿取 未放

 ◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、「全ての歌に固有名
   詞が入っていてどの歌も秀歌」「敵愾心を覚える」と塚本邦雄氏が絶賛された。


219 ワーグナー的胸騒ぎせりおうおうと真黒くうねる森が火を呼ぶ

      (レポート)     
 ワーグナー的胸騒ぎとはなにか、復古的な社会の到来が近いと、危惧しているのであろうか?森の中でおうおうと咆哮する人間の野性(考え方の違うものに対して攻撃的になる人間の性)が黒い情念となって、きっかけがあれば、戦時中のような国民的陶酔となって噴出するのだろうか?ワーグナーの特質すべきことは、その楽劇が国粋主義的イデオロギーのナチスに利用されたことである。ワーグナーは反ユダヤ思想の持ち主で、ユダヤ的な市民社会・資本主義社会の批判をした。第二次世界大戦中もワーグナーの作品のみを上映する「バイロイト音楽祭」はナチスの支援下で上演され、その比類ない音楽は大衆を酔わせ、ドイツ民族精神の優位性を鼓舞した。
  (S・I)


     (当日意見)
★ちょっと話が逸れますが、ニーチェは20代の頃からワーグナーについての評論を何
 篇か書いて、ギリシア精神を現代によみがえらせ、現代文化を再生させるにちがいな
 いとワーグナーを讃美しています。しかし後年ワーグナーに裏切られたとして『ツァ
 ラツストラはかく語りき』第4部でワーグナーを主人公にした「魔術師」という章を
 儲け、彼は精神の俳優に過ぎないと強く非難しています。(鹿取)
★ワーグナーがナチスに利用されたのは有名な話ですが、この歌は人格についていっ
 ているのか、音楽そのものについていっているのか、「ワーグナー的胸騒ぎ」の
 「的」をどうとっていいか迷いました。普通の「的」の使い方だと「ワーグナーのよ
 うな胸騒ぎ」ってなるんだけど、一首読むと意味的には「ワーグナーによって引き起
 こされるような胸騒ぎ」って読めてしまいますが。この「的」ってS・Iさん、どうで
 すか?(鹿取)
★私も分からなかったけど、ワーグナーの楽劇って上演するのに3日くらいかかるそ
 うですね。人間の本質にある攻撃的な部分、民族精神とか神話的なものを思い浮かべ
 ました。(S・I)
★ワーグナーの楽劇にあるような情念に自分も取り込まれそうで胸騒ぎするってことで
 すか?それとも圧倒的な民族精神のようなものが迫ってくる予感がするってことです
 か?(鹿取)
★人間の見たくない面を見つめている歌かなと。(S・I)
★外側から民族主義的なものが押し寄せてくるだけでなく、自分の内部にもそういう
 要素があってそれが自分を浸食していきそうで恐いってことですか?(鹿取)
★あまり内面に入っていくと分からなくなるので、一般化しました。作者の心の中で
 起こっていることはもっと別のことかもしれないけど。(S・I)
★ワーグナーの音楽って怒濤のようじゃないですか。だから「森が火を呼ぶ」にかかっ
 ていく。(曽我)
★ワーグナー的って言ったら、やはり下句を呼ぶための言葉で、ダイナミックで過激な
 感じを呼び込むために使っている。(真帆)
★戦争の萌芽とか民族主義的なものとはあまり結びつけなくてもいいという意見?
   (鹿取)
★はい、音楽的なことに解釈しました。(真帆)
★でもそれだとワーグナーじゃなくても誰でもいいわけですよね。タンホイザーをカラ
 ヤンがやるでしょう、ナチスに協力したことがありますよね。軍国主義と胸騒ぎはや
 はり関係があると思います。この歌が書かれた頃、日本は君が代論争でもめ出した。
 復古調の気配が濃厚になった時期なので、S・Iさんのこのレポートを拝見してそう
 思いました。(うてな)
★作者は復古調の到来に対して胸騒ぎがしているっていうことですね。おうおうと燃え
 さかるような勢いでおどろおどろしいものが押し寄せてくる。最初に言い忘れました
 が、「おうおうと咆哮する人間の野性」とレポートにありますが、歌の上では「おう
 おうと」は森に掛かっていて、ここは人間を出さない方がよい、あくまでも森の行為
 と捉えた方がよいと思います。ここにも黒という色が出てきます。そして赤。(鹿取)


 
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 218

2024-03-15 10:19:44 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究27(15年5月実施)
   【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
   参加者:S・I、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:S・I 彩子 司会と記録:鹿取 未放

 ◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、「全ての歌に固有名
   詞が入っていてどの歌も秀歌」「敵愾心を覚える」と塚本邦雄氏が絶賛された。


218 土屋文明をわれは思えり幹黒き樹は空間に融けゆかぬなり

      (レポート)
 両者は意外と接点がある。まず同郷人であること。(注1) 同じ大学(東京大学)では、ともに哲学を専攻したこと。万葉学者の文明に対し、渡辺松男氏が愛読書として『万葉集』(注2)をあげており、氏が「土屋文明記念文学館」で勤務したことがある、などである。
作風は大きく異なっている。文明は戦後歌壇の最大勢力で、地方にも結社を広げ、写実主義を提唱する「アララギ」の支柱的存在である。文化勲章を受章した郷土の偉大な存在であった。文明から、六十五年後に生まれた氏にとって、時代は大きく変わり、人口は都市に集中し、核家族化し、個人は伝統的つながりから疎外されて、農村や自然をモチーフとする写実的詠法は、時代錯誤と映ったのに違いない。が、写実的リアリズムは衰えなかった。実生活に即した歌や写実は歌の基本であり、それ以外の、前衛短歌などはあまり顧みられなかった。幹が黒くなった老獪な木は、その全盛期を終えても、根を張り、周囲が変化しようとも、環境に融和しないアナクロニズム的な様相をしている、写実的リアリズム、生活密着的歌風が、いつまでもこの郷土に根を生やしていることの違和感を示している。(S・I)
注1   土屋文明: 群馬県高崎市生1890年(明治二三年)~1990年(平成二年)
  渡辺松男: 同県伊勢原市生1955年(昭和三〇年)~
注2   「渡辺松男の嗜好」尾崎朗子編 『短歌』2014年、10月号

         (参考)(鹿取)
 名誉県民土屋文明知事室の廊下の額から我を見据える (「かりん」94年1月号)
 土屋文明さえも知らざる大方のひとりなる父鉄工に生く 『寒気氾濫』

 寒の幹輪郭硬く直立し内側から漲りてくる黒
           いわば観念的黒樹「かりん」93年5月号)
 黙は黒 なにもなき地に伸びていく存在感は樹の黒にあり
 春雪よ桜は大きなる黒衣 樹の外側へ溢れだす黒
 無といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む
 黒という何者なるぞ樹自体になりきり果てて樹から抜け出す
 形而上学的予感満ち空閑(くうげん)を黒というもの歩み出すなり

 黒というふしぎないろのかがよいに税理士も黒きクルマで来たる『寒気氾濫』 
 

      (当日意見)
★(参考)としていくつかの黒とか樹の歌を挙げました。渡辺さん、「樹の歌人」と言
 われたりしますが、93年の歌は樹をどんなふうに詠い始めたのか参考になると思い
 ます。題が「いわば観念的黒樹」で、まさに直(ちょく)なので分かりやすいと思
 うのですが、ゾシマ長老などは深淵な思想を扱った秀歌だと思います。(鹿取)
★鹿取さんの引用の3首め「黒衣」があって思い出しましたが、裁判所の人が着る黒衣
 は何者にも染まらないため、ということをどこかで読んだことを思い出しました。だ
 から「空間に融けゆかぬなり」が身に沁みて気高く感じられました。(真帆)
★そうすると土屋文明が気高いと言っている歌になりますけど、そうですか?(鹿取)
★いや、これマイナスのイメージですよね。(S・I)
★歌集の中で黒はいろんなイメージに使われていて、さっき挙げたゾシマ長老の歌は自
 分の心に近しいかあこがれを感じていると思いますが、税理士が黒い車で来る歌など
 は権威の象徴として黒が使われている例だと思います。前回の217番歌(沈黙を守
 らんとする冬の木のなかにひともと紅梅ひらく)は冬の木にさきがけて紅梅が咲く歌
 でS・Iさんがナルシストとかいわれたけど、この歌の関連で言うとあながち間違いで
 もないなあと思うようになりました。217番歌は冬の木の中で突出した紅梅で、今
 回の歌は周囲に融け込まないで聳えて威厳を示している黒い樹です。(鹿取)
★スタンダールに「赤と黒」って小説がありますね。(S・I)
★スタンダールの黒は僧衣ですよね。歌に戻ると、写実主義の短歌が地方では根を張っ
 ていてゆるぎない中で渡辺さんのような作風はやりにくいでしょうね。まあ、この歌
 は短歌の問題だけに狭める必要もないでしょうが。私は作風の違いを超えて作者が文
 明の偉大さを認めている反面、違和感もあるのかなと思います。あるいはライバル意
 識もあるのでしょうか。(鹿取)
★単純に文明の頑固さを言っている。だから違和感をうたっているとは思いません。
  (慧子) 
★融けゆかないというのは否定的な発想だと思うのですが。(S・I)
★慧子さん、頑固さというのは写実主義に徹するという頑固さですか?(鹿取)
★そうではない。文明は茂吉とは距離を取って、確か生活の何メートルの範囲だけを詠
 うと宣言した。つまり自分の寄ってたつところを定めた訳です。だから融けてゆかな
 いことが違和感にはなっていないと思います。(慧子)
★整理すると慧子さんの意見は、文明が茂吉や他の写実主義の人々とは一線を画して自
 分の信条を守っていた、そういう矜恃を周囲に「融けゆかぬ」という表現で渡辺松男
 がプラス評価しているってことですね。真帆さんは別の観点からですけどプラス評価
 ですね。S・Iさんは文明が大家で地方にその主義が根を張っていることに対して作者
 が違和感を抱いているということでしょうか。私はあくまで土屋文明個人(もちろん
 写実の風土やその地位などひっくるめてですが)に対する尊敬と違和、相反する感慨
 をを抱いているように思えます。意見がさまざまに割れま したが、先に進みます。
   (鹿取)


 
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馬場あき子の外国詠 296 トルコ④

2024-03-14 09:43:01 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子旅の歌39(11年5月)
    【遊光】『飛種』(1996年刊)P128~
     参加者:K・I、崎尾廣子、佐々木実之、曽我亮子、H・T、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会とまとめ:鹿取 未放
     

296 大河のやうなトルコの歴史のかたはらにただ耕して生きしも歴史

      (まとめ)
 以前に鑑賞したいくつかの歌で気の遠くなるようなトルコの歴史を見てきた。作者はそれらの長い長い歴史と人々の営みに思いを馳せ、圧倒されている。それは「王権と宗教のむごき葛藤」の1万年であった。しかし、庶民の大多数は争いの傍らで、細々とそしてしたたかに地を耕してひたすらに生き継いだのである。そういう名もない歴史もあるのだと庶民のひとりひとりの生に思いを馳せている。(鹿取)

  
      (レポート)
 トルコは一万年を超す歴史を秘めているという。その流れの中では語られていないが、土を耕し稔りの秋をもたらしてくれた人々もまたいたのだと詠っている。あたりまえのことではあるが人は食なしには生命を保てない。歴史の流れの中でこの人々は大きな役割を果たしたのだと表現している一首であると思う。(崎尾)
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馬場あき子の外国詠 295 トルコ④

2024-03-13 15:42:09 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子旅の歌39(11年5月)
    【遊光】『飛種』(1996年刊)P128~
     参加者:K・I、崎尾廣子、佐々木実之、曽我亮子、H・T、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会とまとめ:鹿取 未放
     

295 実りたる向日葵の種子嚙みしむる脂は甘くしづかに渋く
 
      (まとめ)
 この辺りでは向日葵の種子を普通に売っているのであろう。かみしめるとその脂は甘くもあるがじんわりと渋さもある。渋いというところにキリスト教のもろもろも含めてトルコの経てきた苦い歴史や現代の苦悩を語らせているのだろう。「しづかに」のこころにしみ入るようなじんわり感が効いている。(鹿取)

  
      (レポート)
 アジアとヨーロッパが交錯する場所であったアナトリア半島の中央部にあって、今豊かに実っているのであろう向日葵の種子を嚙んでいる。嚙むほどに脂は濃厚で少しばかり渋いのであろう。その味わいの複雑さにトルコの歴史を、旅の日々を重ねているのかも知れない。トルコの歴史は深く魅力に富んでいるのよと言っているようである。
  (崎尾)
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馬場あき子の外国詠 293,294 トルコ④

2024-03-12 09:40:55 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子旅の歌39(11年5月)
    【遊光】『飛種』(1996年刊)P128~
     参加者:K・I、崎尾廣子、佐々木実之、曽我亮子、H・T、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会とまとめ:鹿取 未放
     

293 転向の心はいかなる時に湧くや地下都市低く暗く下りゆく

    (まとめ)
 迫害を受けたキリスト教徒達はあくまでも信仰を守るために地下都市を造って隠れ住んだ。しかし、長期間不自由な生活を強いられたり様々な条件から、ある人にふっと転向の心が忍び寄ってきたとしても不思議ではない。暗い地下都市を下りながら、作者はそんなことを考えたのだろう。2、3句の8、6音という字余りがそんな心のたゆたいを表現しているようだ。
 私はふっと太平洋戦争末期、沖縄のガマに暮らした民衆達のことが心をかすめた。遣欧使節団の帰国後のそれぞれの末路を勉強したことも思い出した。(鹿取)
 

294 地下都市はずんずん深し産屋(うぶや)あり死の部屋あり クオ・ヴァディス・ドミネ

    (まとめ)
 「ずんずん深し」に勢いがある。大きい都市は地下八層まであったというが、産屋も死の部屋も備えたまったき生活空間であった、その様に圧倒されているのであろう。そして有名な「クオ・ヴァディス・ドミネ」の語句を反芻している。
 迫害が激しくなったローマから立ち去ろうとしたペテロが、十字架に架かって処刑されたはずのキリストに出会い、驚いて発する言葉が「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこにいらっしゃるのですか)である。キリストは「再び十字架に掛けられるために」ローマに戻るのだと答える。それを聞いてペテロは逃げ出すことをやめ、ローマに引き返す。しかし、やがてペテロも捕らえられて十字架に掛けられたという。その出会いが言い伝えられた場所は、アッピア街道に近いローマ近郊の小さな村であるが、その地に後世ドミネ・クオヴァディス教会が建てられた。現在の建物は17世紀の再建という。
 この歌では地下都市の景に、クオ・ヴァディス・ドミネの言葉を添えることで、293番の歌「転向の心はいかなる時に湧くや地下都市低く暗く下りゆく」を補強し、不自由と苦難を強いる地下都市で信仰を保ち続けることの難しさを思いやっている。転向のこころが兆しても何ら不思議ではない。自分ならどうするか、この地下都市を見た者に突き付けられる鋭い問いであろう。(鹿取)
 
 
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