かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞  223

2024-03-20 13:31:52 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究27(15年5月実施)
   【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
    参加者:S・I、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:S・I  司会と記録:鹿取 未放

 ◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、「全ての歌に固有名
   詞が入っていてどの歌も秀歌」「敵愾心を覚える」と塚本邦雄氏が絶賛された。


223 鷹の目の朔太郎行く利根川の彼岸の桜此岸の桜

       (レポート)
 日本美の象徴である桜を愛でながら、鷹の目で彼岸を歩く朔太郎は故人であるとともに、実生活のない人という意味にもとれる。此岸を歩くのは作者である。同じ桜をみているのではない、美意識も相反している。自身と偉大なる郷土の先人である朔太郎を並列に並べることによって、作者の青年らしい意気込みと自負が窺われる。
 萩原朔太郎の代表作『月に吠える』では、研ぎ澄まされた神経と感覚が織りなす孤独な近代人の内面世界の陰影や流動が描かれている。それらの詩作は芸術至上主義の立場から生まれたもので、事実、朔太郎は己の美的空間のみに生きて、生活を放擲した人であった。萩原葉子によれば、ご飯粒を、膝のまわり一面にこぼしたり、すれ違っても気づかない父であった。その上、現実対応能力もなく、家庭は悲惨を極めたようである。このような実生活の破綻ぶりは、優れた芸術家の宿命と受け入れられ、郷土では礼讃された。(以下省略)(S・I)


         (参考)(15年5月)(鹿取)
    社会のために私は大したことを何ひとつできないかもしれないが、無理に
   でもそこに身を置いておかなければ嘘のような気がするのだ。家の水道の配
   管ひとつ動かすことも自分ではできない。そんなあたりまえの事実の部分に
   自分を繋ぎとめておかなければ、こころが痩せていくように思うのだ。
         『寒気氾濫』(一九九七年)あとがきより一部抄出


    (当日意見)
★以前「かりん」に「アンチ朔太郎」という評論で朔太郎と渡辺松男の類似点と相違点
 を論じました。その論にこの歌も引用しています。彼岸を歩くのは朔太郎、此岸を
 〈われ〉が歩いているという解釈はS・Iさんと同じです。ただ、ふたりはけっこう類
 似点もあります。しかし朔太郎と松男さんは生活態度は全く違って、『寒気氾濫』の
 あとがきから一部抄出して挙げました。私はこの松男さんの感覚に信頼を置いていま
 す。根底に詩人として朔太郎とは違うありようでいたいというのがあるのではないで
 しょうか。余談ですが、「アンチ朔太郎」を読んだ松男さんからは「アンチというほ
 ど朔太郎が嫌いではありません」というメールを貰って、ふたりで朔太郎のどの詩が
 好きかで盛り上がったことがあります。松男さんの好きな詩は、『月に吠える』のよ
 うな繊細な美的感覚のものではなく、郷土望景詩の「大渡橋」のような文語の叙情詩
 でした。高校時代、私もこの辺りの詩が大好きだったので意気投合して嬉しかったで
 す。(鹿取)
★ニーチェの『ツァラツストラはかく語りき』には最後まで主人公に寄り添う鷹がえが
 かれていて誇りの象徴なんですけど、鷹の目のというのは朔太郎が孤独に耐えながら
 詩人としての誇りをもって昂然と歩いているというのでしょうか。(鹿取)
★写真で見るとまさに鷹の目ですよね。(S・I)
★なるほど、容貌ですか。(鹿取)


コメント
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