かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 226

2024-03-26 08:47:48 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究28(15年6月実施)
   【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)97頁~
   参加者:S・I、泉真帆、M・K、崎尾廣子、M・S、鈴木良明、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:曽我 亮子 司会と記録:鹿取 未放


226 汗ばむということ秘密めきていて春霞する谷(やと)を行くなり

      (レポート)
 汗ばんでいるということは何か心に隠し事を秘めて昂ぶっているから。「汗」は端的に言えば「体温調節」の為にあるが、「精神的緊張」によっても出る。この「陰陽石」の一連は暗喩法を交えながら男女の「性的心象」が歌われており、今までの歌とはかなり異なった印象を受ける…。(曽我)


     (当日意見)
★曽我さんが書いているように、汗ばむは性的なことに関連する。谷(やと)という
 言葉には女性の陰(ホト)と共通する何かがあるようだ。(鈴木)
★今回の一連は性の交わりをおおきな自然の中でみていくという意図があるのではない
 か。それを暗い感じではなく明るく性を讃えるという感じで詠っている。この歌は春
 霞があるところに露が降りている質感だとか、スモークがかかっているような質感が
 面白かった。(真帆)
★今回から始めるⅢに収められている歌は、朝日歌壇に載った歌だと本人がおっしゃっ
 たか、どこかに書いていらしたかの記憶があります。ですから、Ⅰ、Ⅱから比べると
 比較的分かりやすい歌だと思うのですが。真帆さんがおっしゃったように、この一連
 は明るくというか天真爛漫という印象を受けます。性は別に隠すべきものではないと
 いう、陰陽石という題からしてあっけらかんとしていますから。私は楽しい一連とし
 て読みました。この歌についていえば、春霞する谷を歩いていると汗ばんできた、そ
 の汗にふっと秘密めいた性愛の場面などを思っているのでしょう。谷には意味を持た
 せていますが、陰までは考えていないような。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 299,300,301 トルコ⑤ 

2024-03-25 10:34:45 | 短歌の鑑賞
 2024年度版  馬場あき子旅の歌40(11年6月)
    【夕日】『飛種』(1996年刊)P132~
     参加者:N・I、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、H・T、
        渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:藤本満須子 司会とまとめ:鹿取未放


299 夜に入りて知るエーゲ海に波音なし魔のごときやみが人奪(と)りにくる

     (レポート)
 上の句は波音もなく静かな夜のエーゲ海をうたい、下の句で真っ暗な闇の中のエーゲ海、〈魔のごときやみが人奪(と)りにくる〉と突然恐怖と不安にかられる作者がいる。波のおだやかなエーゲ海であるが、眺めている作者は闇の中の音も無き海に不安をかりたてられている。(藤本)


   (当日意見)
★ここの海岸は石が大きいので波音がしない。(曽我)
★日本には失われた漆黒の闇がここにはある。生死に対する畏敬の念。(慧子)


    (まとめ)
 本質的な生の恐怖を闇の中で感じているのだろう。見えないがそこに海があるのに波音の聞こえない、日本と違う環境が闇の怖さに拍車をかけているようだ。(鹿取)


300 何といふことなく昏れてエーゲ海波音のなき凄さ夜に知る

     (レポート)
 299番歌(夜に入りて知るエーゲ海に波音なし魔のごときやみが人奪(と)りにくる)では〈人奪りにくる〉とうたい、ここでは〈波音のなき凄さ夜に知る〉とうたっている。日中のエーゲ海のコバルトブルーの美しさ、それにひきかえ夜のエーゲ海、まったく違った海を眺めている作者、真闇の海にひきこまれていくような作者の感覚。
  (藤本)


      (まとめ)
 「何といふことなく」と俗っぽいことばを取り込んで仕上げている面白さを感じる。「凄さ」は現代語にもあって見過ごしそうだが、「凄し」はおなじみの古語だ。新古今集の西行法師の歌「古畑のそばの立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮れ」などに使われて「恐ろしい、ぞっとする、もの寂しい」など現代語とややニュアンスの異なる意味がある。(鹿取) 


301 エーゲ海の入江に藻なく波音なしひたしくる闇にわが身沈みつ

     (レポート)
 波音の無く暗く沈んだ夜のエーゲ海、その闇に自分の身体が沈んでいくよ、前の2首から更にいよいよ海の暗闇と一体化してゆく作者の感覚がうたわれている。(藤本)


   (当日意見)
★藻がないというのは比喩で、生もないことを言っている。(慧子)
★いや、藻は比喩ではないと思います。エーゲ海は死んだ海ではないので藻はなくても
 魚などはいると思うので「生」が無いことにはならない。レポートの「一体化」です
 が、それだと心地いいんだけど、ここは取り込まれていく感覚かなと思います。
    (鹿取)
                     
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馬場あき子の外国詠 298 トルコ⑤

2024-03-24 20:50:26 | 短歌の鑑賞
 2024年度版  馬場あき子旅の歌40(11年6月)
    【夕日】『飛種』(1996年刊)P132~
     参加者:N・I、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、H・T、
        渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:藤本満須子 司会とまとめ:鹿取未放

                     
298 “人生は短く金はすくない”と言つたのはだれだエーゲ海の夕日

      (レポート)
 279「晩年の浪費のごとくエーゲ海の夕日しづかに沈むまで見る」の歌と同様にエーゲ海の美しい夕日、爛熟し沈んでゆく夕日に作者はおのれの人生を重ねて沈思しているのであろうか。
      (藤本)

 
    (当日意見)
★“人生は短く金はすくない”という引用部分は通俗に落としつつ、エーゲ海の美しさを
 讃えている。(鹿取)


   (まとめ)
 引用部分については既に発言したが、諺のようなもので誰が言い出したとも特定できないし、する必要も無いだろう。誰だい、そんな馬鹿なことを言ったのは、という気分だろうか。エーゲ海の夕日は金銭には換えられない美しさで、〈短い人生を浪費しつつ〉感嘆して眺めていたのだろう。この歌から297番歌「晩年の浪費のごとくエーゲ海の夕日しづかに沈むまで見る」をふり返ると「晩年の浪費のごとく」には諧謔の気分があるようだ。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠草 297 トルコ⑤

2024-03-23 09:01:53 | 短歌の鑑賞
 2024年度版  馬場あき子旅の歌40(11年6月)
    【夕日】『飛種』(1996年刊)P132~
     参加者:N・I、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、H・T、
         渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子 司会とまとめ:鹿取未放

                     
297 晩年の浪費のごとくエーゲ海の夕日しづかに沈むまで見る

     (レポート)
 エーゲ海と聞けばトルコを代表する高級リゾート地、港には数多くのクルーザーが係留され、真っ白い家並みが丘の斜面にまぶしく光る。紺碧のエーゲ海の深い色合い。どこかの城塞か、丘か、どこから眺めているのか分からないが、それは問題ではない。美しいエーゲ海に夕日が沈んでいく景をじっと見つめている作者。(藤本)


     (まとめ)(鹿取)
 「沈むまで見る」のだから、かなり長い時間、見ほれていたのだろう。そしてその景は作者の心を充たし豊かな気分になったのだろう。その喜びを「晩年の浪費のごとく」と形容した。エーゲ海の夕日を讃えた文章は無数にあるだろうが、見る位置は違うがたまたま手元にある本から引用しておく。
        ★★★
私はパルテノン神殿の巨大な大理石の円柱のかげに立ち、エーゲ海にまっさかさまに落ちて行く太陽を望見した。息づまる美しさとは、あのような美しさを言うのであろう。美しさを通りこして、それは荘厳であり崇高でさえあった。太陽が姿を消すと同時に急速に寒さが加わってきたが、私は身じろぎ一つしないで、残照の空と海を見比べていた。 小田実『何でも見てやろう』
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 225

2024-03-22 10:00:18 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究27(15年5月実施)
   【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
   参加者:S・I、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:S・I  司会と記録:鹿取 未放

 ◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、「全ての歌に固有名
   詞が入っていてどの歌も秀歌」「敵愾心を覚える」と塚本邦雄氏が絶賛された。


225 シャガールの馬浮く界の暖色へほんわりと浮遊はじめるからだ

       (レポート)
 マルク・シャガール(1887~1985)は帝政ロシアのユダヤ人居住区に生まれ、パリで学び、両大戦という過酷な時代を生き抜いて、誕生、結婚、死など人間の一生を、生涯のテーマとした。青を基調とする独特の色彩を駆使しながら、のびのびとする人物、花束や恋人たちといった愛に満ちたモティーフの絵は、夢やノスタルジーを呼び起こし、人間に対する限りない悲しみを謳いあげた。
 シャガールの馬が登場する絵はいくつかあるが、この絵は《ソロモンの雅歌IV》1958年、であろう。下の濃い赤は故郷のベラルーシが戦火に包まれる情景であろう。雅歌につつまれた幸福感あふれる優美な世界へ、シャガールに身をゆだね、うっとりと安心しきった表情で「ほんわりと」重力を忘れたように浮遊している「からだ」は、生涯敬愛し続けた亡き妻のベラであり暖色の世界とは、傷つきなくなっていった人々、愛する人をなくしてしまった人々を鎮魂する世界なのだろう。(S・I)
◆レポーターが添付した《ソロモンの雅歌Ⅳ》の絵は、著作権上ブログでは割愛します。

      (当日意見)
★レポーターの方は「ほんわりと浮遊はじめるからだ」はベラと書かれていますが、こ
 れは作者松男さんではないでしょうか?(M・K)
★私も作者が浮遊するのだと思います。(うてな)
★「シャガールの馬浮く界の暖色へ」というからにはベラもシャガールも一緒に浮いて
 いる絵が既に作者の頭の中にあると思うので、やはり〈われ〉が絵の中に浮遊しはじ
 めるのだろうと思います。(鹿取)
★たとえばこの絵を見ながら浮いていくのは作者よりもベラの方がふくらみがあると思
 いました。自分自身だとありきたりで面白くない、シャガールは生涯ベラを慕ってい
 たのでベラを中心においてやりたい。晩年の絵ですから。(S・I)
★シャガールは亡命したりと苦しい生涯を送りましたが、この暖かい絵を眺めていたら
 〈われ〉もその世界に寄り添いたくなったというのではないでしょうか。(鹿取)


        (後日レポート補足)(S・I)
 レポート部分の「浮遊している」は、この歌の語句「浮遊はじめる」に訂正。
 「浮遊はじめるからだ」は、シャガールがベラの「からだ」を包み、これから、さらなる暖色の世界へ馬に乗り、向かおうとしている情況を捉えている。「浮遊しているからだ」であれば、浮遊が継続しており、暖色の世界に漂っている状態を描写したのにすぎない。一方、当日意見にもあるように、「浮遊はじめるからだ」の主体は、作者かもしれないが、やはり作者の視点はベラにあるのではないか、ベラを描写した一首と捉えたい。


    (後日意見)(15年5月)(鹿取)
 レポーターの挙げた絵《ソロモンの雅歌Ⅳ》を先に見て馬に乗った花嫁花婿の図がインプットされてしまったが、作者は「シャガールの馬浮く界の暖色」だけしか言っていない。暖かい色の絵の中に馬だけが浮いていてもよいのである。シャガールの描きかけの絵かもしれない。それなら「ほんわりと浮遊はじめるからだ」はベラでもよくて、シャガールが亡き妻を絵の中に招き入れ浮かせてゆくのである。シャガールの希求を渡辺松男が優しく肯っていると読んでもいいように思う。
 《ソロモンの雅歌》はシャガールが旧約聖書に題をとったシリーズでⅠ~Ⅴまである。聖書では《ソロモンの雅歌》は祝婚、愛の賛歌がテーマで、その濃厚さゆえに聖書に記すかどうか議論が絶えなかった章だという。シャガールの《ソロモンの雅歌Ⅳ》は祝婚の場面で花嫁は白いベールを被り、馬は前脚に花束を抱えている。
 ただ、シャガールの雅歌シリーズについて解説した複数の説明を読んでみたが、どの説明にも「下方に歓喜するイスラエルの民が描かれている」意が書かれている。それで最初のレポートの「下の濃い赤は故郷のベラルーシが戦火に包まれる情景であろう」はまずいだろう。せっかく「馬浮く界の暖色へほんわりと」浮遊していく幸福感を描くのに、下方がふるさとの戦火の状況では自分たちだけが戦火を逃れて空に浮遊することになるからである。
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