かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 225

2024-03-22 10:00:18 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究27(15年5月実施)
   【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
   参加者:S・I、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:S・I  司会と記録:鹿取 未放

 ◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、「全ての歌に固有名
   詞が入っていてどの歌も秀歌」「敵愾心を覚える」と塚本邦雄氏が絶賛された。


225 シャガールの馬浮く界の暖色へほんわりと浮遊はじめるからだ

       (レポート)
 マルク・シャガール(1887~1985)は帝政ロシアのユダヤ人居住区に生まれ、パリで学び、両大戦という過酷な時代を生き抜いて、誕生、結婚、死など人間の一生を、生涯のテーマとした。青を基調とする独特の色彩を駆使しながら、のびのびとする人物、花束や恋人たちといった愛に満ちたモティーフの絵は、夢やノスタルジーを呼び起こし、人間に対する限りない悲しみを謳いあげた。
 シャガールの馬が登場する絵はいくつかあるが、この絵は《ソロモンの雅歌IV》1958年、であろう。下の濃い赤は故郷のベラルーシが戦火に包まれる情景であろう。雅歌につつまれた幸福感あふれる優美な世界へ、シャガールに身をゆだね、うっとりと安心しきった表情で「ほんわりと」重力を忘れたように浮遊している「からだ」は、生涯敬愛し続けた亡き妻のベラであり暖色の世界とは、傷つきなくなっていった人々、愛する人をなくしてしまった人々を鎮魂する世界なのだろう。(S・I)
◆レポーターが添付した《ソロモンの雅歌Ⅳ》の絵は、著作権上ブログでは割愛します。

      (当日意見)
★レポーターの方は「ほんわりと浮遊はじめるからだ」はベラと書かれていますが、こ
 れは作者松男さんではないでしょうか?(M・K)
★私も作者が浮遊するのだと思います。(うてな)
★「シャガールの馬浮く界の暖色へ」というからにはベラもシャガールも一緒に浮いて
 いる絵が既に作者の頭の中にあると思うので、やはり〈われ〉が絵の中に浮遊しはじ
 めるのだろうと思います。(鹿取)
★たとえばこの絵を見ながら浮いていくのは作者よりもベラの方がふくらみがあると思
 いました。自分自身だとありきたりで面白くない、シャガールは生涯ベラを慕ってい
 たのでベラを中心においてやりたい。晩年の絵ですから。(S・I)
★シャガールは亡命したりと苦しい生涯を送りましたが、この暖かい絵を眺めていたら
 〈われ〉もその世界に寄り添いたくなったというのではないでしょうか。(鹿取)


        (後日レポート補足)(S・I)
 レポート部分の「浮遊している」は、この歌の語句「浮遊はじめる」に訂正。
 「浮遊はじめるからだ」は、シャガールがベラの「からだ」を包み、これから、さらなる暖色の世界へ馬に乗り、向かおうとしている情況を捉えている。「浮遊しているからだ」であれば、浮遊が継続しており、暖色の世界に漂っている状態を描写したのにすぎない。一方、当日意見にもあるように、「浮遊はじめるからだ」の主体は、作者かもしれないが、やはり作者の視点はベラにあるのではないか、ベラを描写した一首と捉えたい。


    (後日意見)(15年5月)(鹿取)
 レポーターの挙げた絵《ソロモンの雅歌Ⅳ》を先に見て馬に乗った花嫁花婿の図がインプットされてしまったが、作者は「シャガールの馬浮く界の暖色」だけしか言っていない。暖かい色の絵の中に馬だけが浮いていてもよいのである。シャガールの描きかけの絵かもしれない。それなら「ほんわりと浮遊はじめるからだ」はベラでもよくて、シャガールが亡き妻を絵の中に招き入れ浮かせてゆくのである。シャガールの希求を渡辺松男が優しく肯っていると読んでもいいように思う。
 《ソロモンの雅歌》はシャガールが旧約聖書に題をとったシリーズでⅠ~Ⅴまである。聖書では《ソロモンの雅歌》は祝婚、愛の賛歌がテーマで、その濃厚さゆえに聖書に記すかどうか議論が絶えなかった章だという。シャガールの《ソロモンの雅歌Ⅳ》は祝婚の場面で花嫁は白いベールを被り、馬は前脚に花束を抱えている。
 ただ、シャガールの雅歌シリーズについて解説した複数の説明を読んでみたが、どの説明にも「下方に歓喜するイスラエルの民が描かれている」意が書かれている。それで最初のレポートの「下の濃い赤は故郷のベラルーシが戦火に包まれる情景であろう」はまずいだろう。せっかく「馬浮く界の暖色へほんわりと」浮遊していく幸福感を描くのに、下方がふるさとの戦火の状況では自分たちだけが戦火を逃れて空に浮遊することになるからである。

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