かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の227

2019-11-28 18:12:09 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放




227 掬いては日溜りをたべ枯れ葉たべ過食症なるやわれ痩せてゆく

(レポート)
 本当の「過食症」によって痩せてゆくのは大変辛い症状だと聞く。しかしこの一首はそれほど重い意味ではなく、慢性的な食べ過ぎ、くらいにとって良いように思う。短歌の種類に〈なぞなぞ歌〉ってあっただろうか、そんなことを思わせた一首だ。「掬いては日溜まり」を食べ、腐葉土を食べ、痩せていく樹木かもしれない。でも樹木なら大抵は痩せてはいかず肥えてゆくだろう。もっと観念的なことか。繰り返し繰り返し一首を心に歌いつつ、痩せてゆく主体が一体何なのか、年月をかけて問うてゆく楽しみがある。ハッと気づく瞬間が待ち遠しい。(真帆)
  

(紙上参加)
 日溜りや枯れ葉ばかり食べていたら私は痩せていくよ、と。秋の気持ちのいい日溜りや、堪能している感じ透明感があり快い歌。菊の花をたくさん食べた時に仙人のような気分になるのと似ている感じです。(菅原)


(当日意見)
★菅原さんが「美しい落ち葉を味わい」と書かれているけど、枯れ葉をここで作者は美しい物と
 して設定しているかなあと疑問です。「拒食症なるや」と疑問形ですが拒食症は食べても食べて
 も満足できないので苦しい病気ですから快いには繋がらない気がします。川野里子さんがこの 
歌だか先々月鑑賞した「われひとり ひとりであれば蝉を食べいいようのなき午後のしずけさ」
 (原作の蝉の字の旁は、口2つに早)だかについて鑑賞文で「かわいそう」と書かれていたの
 ですが、その文章が見付からないので真意は分からないのですが。(鹿取)
★日溜まりと枯れ葉をどうとるかって事ですよね。日溜まりと落ち葉では駄目だったと思います。
 季節に対するデリケートな反応だけど虚ですよね。そういうものを食べても食べ尽くせない。
 どんなに食べてもそれは虚であって実じゃないから太らないですよね。焦燥感とか飢餓感を言
 っているのかな。(A・K)
★拒食症なるやって、叙情性を排除していると思っていたのですが。日溜まりや枯れ葉は晩秋に
 入る前の季節を表している。(慧子)
★過食症や痩せていくということから心地よい歌だとは思いませんでした。(岡東)
★歌の中に「われ○○」と断りがある歌がありますが、やっぱり断りがなかったら主語はわれっ
 て考えていいのですか?(真帆)
★そうですね。われをわざと計算で入れない場合もあるし、音数が足りなくて入らなかった場合
 もあると思います。書いてなければわれと読んでいいとは思いますが、われ=渡辺松男では決
 してないのでそこは注意が必要だと思います。(鹿取)
★渡辺さんは具体を持ってきているけど抽象的なことを言っている。(A・K)


(後日意見)
 昨日の226番歌「体育の日背高泡立草繁りたべてもたべても食べつくせない」で書くべきだったが、前川佐美雄の『白鳳』に次のような歌がある。(鹿取)
  億万の春のはなばな食べつくし死にたる奴はわれかも知れぬ



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