馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
371 ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢
(レポート)
ケンピンスキーホテルに投宿するのだが、「一夜」として物語風に時と場所を設定し、そこにハンガリーの代表的作曲家リストの曲が流れている。すでに認識していたことを聴覚はさらに美しく浄化させる力があると思うのだが、ピアノ曲であろう、それを聴き、それに身をゆだねている「老女」がいる。そんななかでいろいろ過ぎ去ったけれど「ハンガリー動乱も夢」と「老女」は「知る」。夢というものについて解釈はできないのだが掲出歌では「夢」だったとか「夢」のようだとしていないのも味わい深い。ところで「老女知る」これは誰なのか。1956年の「ハンガリー動乱」の為に動いた男達の背を、またそのすさまじさを見ていたであろう女、深く時代と人を見つめて、経験が知恵となっている「老女」を誰というのではなくここに登場させる。「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ」という詠い出しにふさわしい人物の据え方だ。(慧子)
(当日発言)
★自分の感じを言うのではなく、ある人物を登場させて代詠のように詠うやり方。この人物は実
際にいなかったかもしれない。(鈴木)
★良い歌で好き。レポーターが書いている「ハンガリー動乱も夢」と「老女」が「知る」という点
については賛成できない。老女が知っているのは「ハンガリー動乱」であろう。舞台は豪華なケ
ンピンスキーホテル、旅の一夜おそらく生演奏されているのだろうリストを聴いている。老女の
記憶の中には生々とあるハンガリー動乱も、もう夢の彼方のように遠くなってしまったというこ
とだろうか。あるいは旅人としてホテルに身を置いて陶然としてリストを聴いていると歴史とし
て知っている「ハンガリー動乱」も夢のように感じられる、ということだろうか。(鹿取)
(後日意見)(2013年11月)
鈴木さんの発言にあるように、この老女は実際にはいなかったのかもしれない。言葉の問題を考えると近くに座った老女が作者に問わず語りにハンガリー動乱のことを語ったと考えるには無理がある。そうすると広島とか沖縄でやっているような老人が体験談を語る会か。これも公会堂とか体育館とかなら分かるが、背景のリストが流れる優雅なホテルにはそぐわない。やはりこういう老女の存在を設定しているのかもしれない。
おそらく老女(架空でもよいが)は、どんなに時間が流れてもハンガリー動乱を生々と覚えているのだろう。昨日のことのように覚えていながら、世の中においては遠い夢になってしまったことを老女は自覚しているのだろう。作者はその老女のぼうぼうとした思いに寄り添っているのだ。
この老女は生きているけれど能のシテである。(鹿取)
【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
371 ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢
(レポート)
ケンピンスキーホテルに投宿するのだが、「一夜」として物語風に時と場所を設定し、そこにハンガリーの代表的作曲家リストの曲が流れている。すでに認識していたことを聴覚はさらに美しく浄化させる力があると思うのだが、ピアノ曲であろう、それを聴き、それに身をゆだねている「老女」がいる。そんななかでいろいろ過ぎ去ったけれど「ハンガリー動乱も夢」と「老女」は「知る」。夢というものについて解釈はできないのだが掲出歌では「夢」だったとか「夢」のようだとしていないのも味わい深い。ところで「老女知る」これは誰なのか。1956年の「ハンガリー動乱」の為に動いた男達の背を、またそのすさまじさを見ていたであろう女、深く時代と人を見つめて、経験が知恵となっている「老女」を誰というのではなくここに登場させる。「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ」という詠い出しにふさわしい人物の据え方だ。(慧子)
(当日発言)
★自分の感じを言うのではなく、ある人物を登場させて代詠のように詠うやり方。この人物は実
際にいなかったかもしれない。(鈴木)
★良い歌で好き。レポーターが書いている「ハンガリー動乱も夢」と「老女」が「知る」という点
については賛成できない。老女が知っているのは「ハンガリー動乱」であろう。舞台は豪華なケ
ンピンスキーホテル、旅の一夜おそらく生演奏されているのだろうリストを聴いている。老女の
記憶の中には生々とあるハンガリー動乱も、もう夢の彼方のように遠くなってしまったというこ
とだろうか。あるいは旅人としてホテルに身を置いて陶然としてリストを聴いていると歴史とし
て知っている「ハンガリー動乱」も夢のように感じられる、ということだろうか。(鹿取)
(後日意見)(2013年11月)
鈴木さんの発言にあるように、この老女は実際にはいなかったのかもしれない。言葉の問題を考えると近くに座った老女が作者に問わず語りにハンガリー動乱のことを語ったと考えるには無理がある。そうすると広島とか沖縄でやっているような老人が体験談を語る会か。これも公会堂とか体育館とかなら分かるが、背景のリストが流れる優雅なホテルにはそぐわない。やはりこういう老女の存在を設定しているのかもしれない。
おそらく老女(架空でもよいが)は、どんなに時間が流れてもハンガリー動乱を生々と覚えているのだろう。昨日のことのように覚えていながら、世の中においては遠い夢になってしまったことを老女は自覚しているのだろう。作者はその老女のぼうぼうとした思いに寄り添っているのだ。
この老女は生きているけれど能のシテである。(鹿取)
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