
■メイン写真
ミツマタロードは3分咲き。きれいに咲いていた株もある。
■今回のコース
西山天王山駅→小倉神社→森の学舎→尾根分岐→サントリー山→天王山(山崎城跡)→
(ミツマタロード)→宝積寺→山崎駅
昨年、下見済のミツマタロードを、「らくらく山歩の会」で案内してきた。
午前中は、雨がちょっと心配。天気はしだいに回復傾向ということで決行となった。
阪急西山天王山駅から住宅街を西へ。
乙訓地方では最も古い延喜式内社である小倉神社へ。
天正10年(1582年)の山崎合戦で、羽柴秀吉が家臣の片桐祐作と脇坂陣内をここに遣わし、
戦勝祈願をしたと説明にある。が、片桐祐作って誰? 調べてもよく分からない。
神社の左手から登山道に入る。ほどなく黄緑色の橋を渡る。
次の分岐は、左に別の橋があるが、右の坂道に入る。
竹による雑木林の浸食を食い止めるべく森林保全活動をしている「森の学舎」を経て、
ちょっとした登りで天王山へ続く主稜線に出る。
天王山に行く前に、ちょっとだけ寄り道して、サントリー山へ。
小広くなった「ピーク」には、材を現地調達したようなベンチとテーブルがある。
サントリー山は正式な名称でもなく、地形図的にもピークの位置にはないが、
いつのころか、誰かがこのピークに手製の山名板を付けたのだろう。
由来をいろいろ調べたが、定かになるものはなかった。
まあ、いたずらに歴史や文化を無視した地名をつけていくのはどうかと思う。
もとの尾根道に戻る。左に池が見える。
ほんの少しの登りで、天王山の山頂に到着する。
ここは山崎城跡。山頂部は平坦に削られ、北側や東側には曲輪の形跡や、わずかに石垣の跡、
そして小さな五輪塔などがある。
ところで天王山の名の由来は、直下にある酒解神社が、かつて山崎天王社と呼ばれて
いたことによる。
広い山頂には、山崎の戦いの説明パネルがある。堺屋太一の文章のようだ。
天正10年(1582年)、山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は、翌年、ここに山崎城を
築き、大山崎を城下町として保護した。そして、千利休らと大山崎で茶会を開いた。
しかし、大坂築城が本格化すると、天正12年に山崎城は破城となり、天守も
取り壊されたという。わずか2年しか、山崎城は機能していなかった。
井戸跡。雨水を溜めたと考えられている。
山頂部から、来た道を少し戻り、南西に延びる脇道に入る。
すぐの分岐を左に進むと、ぼちぼちミツマタが出てくる。
上空に高圧電線をみて、左に鋭角に折れるとすぐに作業林道の分岐で、切通しの道を
緩やかに下ると、ミツマタロードのメインエリアに着く。
いつの間にか青空も出てきた。
あたり一面がミツマタ群落というのではなく、作業林道に沿って、並木のように
ミツマタが続く。今シーズンは2月下旬の冷え込みがきいたか、全体としてまだ3分咲きと
いった具合だ。
きれいに咲いている花は、ほの甘い香りがする。
しだいに標高を下げ、群落が終わると、林道は竹林の中を抜けていく。
何度かつづら折りの道をこなし、老人ホームの屋根が見下ろせるころ、
左にのびる山道に入る。
このあたりの竹林は非常に美しい。
墓地の隣を通り抜けると、宝積寺の境内に出る。
ここは神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が開いた歴史ある寺。
この三重塔は、山崎の戦いの後、秀吉が一夜で建立したという。
一夜は極端にしても、秀吉の迅速な仕事ぶりを伝えたものだろう。
仁王門をくぐると、もう山崎駅も近い。
ミツマタロードは、プチハイクとして今後も益々人気が出るコースになると思う。