Mr.Dashのぶろぐ館

奈良・大阪・日本アルプスの山々が大好きな、Mr.Dashのブログです。

2015年12月22日(火) 高野山町石道(その1)、九度山~古峠

2015年12月29日 | 山登りの記録
■メイン写真
慈尊院から丹生官省符神社に向かう石段横にある、第180町石(最初の町石)


■今回のコース
道の駅「柿の郷くどやま」(駐車)→慈尊院→丹生官省符神社→勝利寺→
展望台→榧蒔石→銭壺石→雨引山分岐→一里石→六本杉→古峠→小屋→
上古沢駅⇒(南海高野線)⇒九度山駅→真田古墳→真田庵→
道の駅「柿の郷くどやま」


紀ノ川沿いの九度山から、高野山へ。
大門まで約20kmの間に180の町石が並ぶ、町石道を3回に分けて歩く。
もとより1回で全行程を歩いても何の問題もないのだが、ゆっくり
分けて歩くことで見えるものもあるはずだ。



道の駅「柿の郷くどやま」にクルマを置き、出発。
今度のNHK大河ドラマは、ここ九度山に14年間滞在(蟄居)した真田幸村が主人公。
町は、幸村一色で染まっていた。



慈尊院に向かう途中に、能光尊史跡がある。
能光は、九度山に住んでいた仏師で、代表作は高野山中門の多聞、持国の
二天王だという。



慈尊院。ここが町石道への入口となる。
慈尊院は816年、弘法大師が高野山を開く際、高野山の表玄関として
草創した伽藍だという。



丹生官省符神社へ続く石段で振り返ると、三石山が見える。

石段をほぼ登り切った右側に、最初の町石である第180町石がある。
ここから1町(109m)ずつ、欠けることなく立てられているのだ。



丹生官省符神社に到着。ここの社殿は重要文化財に指定されている。



気温が一気に上ったので、水蒸気が立ち込めていた。

ちょっとだけ寄り道する。



勝利寺の山門。高野山の開創前からあったそうで、弘法大師が厄除けのために
十一面観音を奉納したという。現在は、スポーツなど勝負事にご利益が
あるという。



境内にある紙遊苑は、高野紙で知られる手すき和紙を伝承するための
施設である。



町石道に戻る。最初は柿園の中の農道といった風情だ。



しだいに標高を上げる。岩湧山の堂々とした姿が見える。



展望台。北西から東までのワイドな眺めが得られる。

やがて植林帯に入る。



町石道から30mほど左に入ったところにある榧蒔石(かやまきいし)。
弘法大師が、当地の貧しさを見かね、この岩から榧の種を蒔いたという。



続いて銭壺石(ぜんつぼいし)。
鎌倉時代に20年の歳月をかけて町石道が整備された際、この石に置いた
壺に給金を入れ、作業員につかみどりをさせていたもの。銭壺は上部が
くびれているので、欲ばっても一定量の銭しかつかめなかったいう。



雨引山分岐を過ぎ、一里石へ。



続いて、六本杉。丹生都比売神社への分岐でもある。



古峠。今回はここで町石道に別れを告げ、東側の上古沢に下りる。
道標はきちんとしており、道も一部は急だが、歩きやすい。



途中にある小屋。壊れかけ。



上古沢、下古沢の分岐。右の細い方が、上古沢駅への道。



明るく開けたミカン畑に出る。



また樹林帯に入り、ひとつ沢を渡る。突然出てきた薄暗いゴルジュ風の
地形にびっくり。



国道370号線に下り、不動谷川にかかる橋を渡り、対岸の急坂を
登り返せば、上古沢駅に着く。
駅舎はなんだか少々傾いているが、無人駅ではなく駅員さんがいた。



「真田の赤備え」にあやかり、赤ボディとなった南海電車で、
九度山駅に戻る。



九度山駅も、真田の六文銭と、赤備えにお化粧していた。

道の駅に戻る途中、九度山の史跡を巡る。これがなかなか楽しかった。



真田古墳。大坂まで続く秘密の抜け穴とも言われていたが、実は古墳だ。
面白いことに、大阪の玉造に近い三光神社にも、抜け穴と伝わる穴がある
(これは別に九度山とつなげるために掘ったものではなく、ゲリラ戦法を
 とるためのもので、玉造周辺に数か所あったという)。



真田庵に、真田昌幸(雪村の父)の墓を訪ねる。
昌幸は大坂の陣の前に、ここ九度山で亡くなっていた。

道の駅内のベーカリーカフェ「パーシモン」でおいしい菓子パンと
コーヒーを頂き、大満足で家路についた。

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