知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「日本人の心を解く」(河合隼雄著、河合俊雄訳)

2017年04月30日 06時07分49秒 | 日本人論
副題「夢・神話・物語の深層へ」
岩波現代全書、2013年発行

数年に一度のペースで河合隼雄さんの著書に手が伸びます。
何となく、生理的欲求が生まれるのです。
現実の生活に迷いが生じたとき、自分の立ち位置を再確認する作業なのかもしれません。

「無意識の構造」という彼の著書を初めて読んだのが、確か高校生の時。
それ以来、折に触れて教えを請うてきた人生の先生です。

さて、この本は「河合俊雄訳」というちょっと不思議なフレーズがくっついています。
河合俊雄氏は河合隼雄氏の息子さんで、やはり臨床心理学者。
この本はもともと英語で発表され、それを日本語に訳したと云うことです。

内容は5回分のエラノス会議の講演です。
後の彼の著書にキーワードとして現れてくる事項を扱っており、1980年代の研究のダイジェスト版と云ってよいかもしれません。

第一章:夢
第二章:明恵
第三章:日本神話
第四章:日本の昔話
第五章:とりかえばや

私がとりわけ興味を抱いたのは、第三章の日本神話でした。
『古事記』『日本書紀』に記されている日本神話ですが、私は「当時の政治情勢を反映させた天皇家の正当性を都合よく説明する内容」と捉えてきました。
しかし河合氏はそれを一歩も二歩も掘り下げ、その本質を「中心となる神の中空構造」と捉えており、目から鱗が落ちました。
そしてその中空構造は、現代にも繋がる日本社会の特質であると。
以下のフレーズが象徴しています;

「日本の天皇は太陽の女神アマテラスの子孫であると云われているけれども、人々の中心としての力という意味では、実際のところは月の神ツクヨミの性質を持っている」

この文章を読んで、いろんなことが腑に落ちるようになりました。
さすが、河合先生!

<備忘録>

【第一章】

□ 『宇治拾遺物語』
 逸話・伝説・そしてインド、中国、日本の歴史的出来事の記録が含まれており、僧侶達はこれを説教に用いた。夢と覚醒時の世界が相互浸透する際だった例が多く含まれる。
 当時のコスモロジーは死の世界や死後の世界を含んでいた。我々の生を本当に考えるためには、この世もあの世も包摂する立場をとることが重要である。

□ 日本語の「私」
 第一人称のいい方には「わたくし」「ぼく」「おれ」「うち」などのように多くのものがあり、どれを選ぶかは、状況と話しかける相手によって決まる。このような点で、日本人はもっぱら他者の存在を通じて「私」を見いだしていると云ってよい。

□ 自然(しぜん-じねん)の概念
 ユングは人間のことを「自然に反する作業」であるとしている。
 西洋文化との摂取句以前には日本人は自然の概念というものを持っていなかった。
 中世日本における夢についての物語を通じて、そこには生と死、現実と空想、自己と他者の間のはっきりとした区別はないことがわかる。同様のことはヒトと自然の関係についても当てはまる。
 西洋の歴史において、自然は文化や文明と対立する概念であって、常に人間により客観化されてきた。Natureという言葉は日本語で「自然」と翻訳されたが、これ以前には日本語に自然という概念がなかった。「自然」とはすべてが自発的に流れる状態を表現していた。常に変化する流れのようなものがあって、そこにはすべてー空、大地、人ーが含まれている。この「自然」の状態は、日本人により直観的に捉えられ、後に“Nature”を翻訳するために用いられた「しぜん」ではなく、もともとは「じねん」と読まれた。

【第三章】

□ 太陽の女神、アマテラス
 多くの他の文化において太陽は男性神で表されるのに、日本においては女神であり、日本の代々の天皇は、この女神の子孫であるとされている。アマテラスの孫の孫(玄孫:げんそん、やしゃご)が日本における最初の天皇になった。
 『古事記』によると、アマテラスは母親(イザナミ)が亡くなったあとに父親(イザナギ)の左目から生まれた「父親の娘」である。イザナギは穢れを禊ぐ目的で中つ瀬に背理、左の目を洗うとアマテラスが、右の目からは月の神であるツクヨミ、鼻からは嵐の神であるスサノオが生まれた。イザナギはアマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の国を、スサノヲに海の領域を支配するよう命じた。
 ・・・『日本書紀』での記述内容は異なる。

□ 中空としての月の神
 太陽の女神(アマテラス)と嵐の神(スサノヲ)はお互いに戦うが、どちらかが明らかに正しいわけでも、悪いわけでもない。嵐の神は太陽の女神の敵ではなく、微妙な対をなす存在である。
 『古事記』『日本書紀』において、月の神(ツクヨミ)に関する話がないのは奇妙である。ツクヨミは神々の中心に位置していながら何もしないという逆説的な役割を担っている。そしてこのトライアッド(三神一組)のうちの他の二つの神である太陽の女神も嵐の神も日本の神々の中心の神となる役割を担い切れていないこともポイントである。

□ 日本神話に登場する3つのトライアッド(三神一組)
1.天地のはじめー自ら誕生ータカミムスヒ、アメノミナカヌシ、カミムスヒ
2.天国と黄泉の国のはじめての接触ー父親からの水中出産ーアマテラス、ツクヨミ、スサノヲ
3.天つ神と国塚にとの間のはじめての結婚ー母親からの火中出産ーホデリ(=海幸彦)、ホスセリ、ホヲリ(=山幸彦)
・・・後に山幸彦とトヨタマビメの間の子どもが、日本の最初の天皇の父親となる。
 
 3つのトライアッドに共通する特徴は、何もしない神が中心に存在すること。
 一つ目は父性原理と母性原理を、二つ目は女性と男性、天と地を、三つ目は山と海の対立を内包している。
 この中空をめぐる動き・争いの目的が、権力を勝ち取ったり獲得することではなく、いかに均衡がとれるかに終始していることが最も大切である。
 これが古代日本のコスモロジーであり、キリスト教神話の構造と明確に対照をなしている。キリスト教においては、絶対的で常に正しい唯一神が中心に立っていて宇宙を支配している。日本神話の曖昧な性質とは対照的に善悪の区別は極めて明快である。
 キリスト教では中心がすべての要素を統合する力を持つのに対して、日本の神話においては、中心は力を持たないのである。
 この中空均衡モデルは、今日の日本においてもまだ機能している。このモデルの最大の欠点は、中心があまりにも弱いので、どのような要素も簡単に侵入できることである。
 日本の天皇は太陽の女神アマテラスの子孫であると云われているけれども、人々の中心としての力という意味では、実際のところは月の神ツクヨミの性質を持っている。

【第四章】

□ 西洋と日本の昔話における象徴の使い方には際だった対比が認められ、西洋の象徴が人間から構成されているのに対して、日本の象徴は自然から成り立っている。
 竜宮、つまり竜の宮殿と聞くと、西洋人はそこから竜との戦いを連想する傾向があるのに対して、日本人はそこから宮殿の美しさを連想する。

□ 日本人は「葛藤の美的解決」を好む(ジェイムズ・ヒルマン)

□ 日本神話においては、対をなす者同士の間で、戦いの代わりに多くの重要な妥協がなされる。
 イザナミとイザナキとの間の妥協は、男性と女性、あるいはこの世と黄泉の国との間になされたまさに最初のものである。

□ 日本神話とキリスト教神話の違い
1.双方の間で、禁止する者と禁止される者の性が逆になっている。西洋において男性原理が支配しているのに対して、日本においては女性原理が優勢であることを示唆している。
2.西洋において、人間が神に対して禁を破ることが行われるのに対して、日本においては神々の間でなされている。
3.西洋の神が厳しい罰を与えるのに対して、日本の神々はそのようなことを行わない。