2017年8月の「100分de名著」は大岡昇平の「野火」でした。
昔から気になっていた小説ですが、読まずに今に至っていましたが、それを知るよい機会となりました。
「戦争の狂気」とはよく使われる言葉ですが、なぜ人間は戦争を起こし殺し合うのでしょう。
きっかけは上層部の人間の思惑かもしれません。
それにコントロールされた民衆、扇動するメディアが肯定論を展開し、後戻りできない状況を作り上げます。
しかし、戦争の現場で殺し合うのは兵士の個人個人です。
番組の中で、社会生活の中では善良な市民が、どのタイミングで殺人者になるのかという塚本監督のコメントを興味深く聞きました。
捕虜に銃剣をさして殺すよう、上官から命令されます。
はじめは「とてもそんなことはできない」と拒否する兵士。
しかし「刺さなければお前を殺す」と脅されます。
その極限状況で、人間の闘争本能に蓋をしていた大脳の抑制が外れます。
ある兵士は捕虜を刺して殺したとき、罪悪感とともに充実感を感じたそうです。
人間が獣に成り下がった瞬間です。
こうして人間は殺し合ったのです。
日本人の皆さん、また同じ事を繰り返しますか?
戦争をやりますか?
<番組内容>
大岡昇平の代表作「野火」は、太平洋戦争末期、絶望的な状況に置かれた一兵士が直面した戦争の現実と、孤独の中で揺れ動く心理を克明に描きだした作品です。戦後文学の最高傑作とも称される「野火」は、数多くの作家や研究者が今も言及し続け、二度にわたる映画化を果たすなど、現代の私たちにも「戦争とは何か」を問い続けています。世界各地で頻発するテロ、終わりのない地域紛争、緊迫する国際関係……現代という時代にも、「戦争」は暗い影を落とし続けています。作家の島田雅彦さんは、戦後70年以上を経て、実際に戦争を体験した世代が少なくなっている今こそ、この作品を通して、「戦争のリアル」を追体験しなければならないといいます。
舞台は太平洋戦争末期のフィリピン・レイテ島。日本軍の劣勢が確実になる中、主人公・田村一等兵は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からも食糧不足のために入院を拒否されます。米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、田村は熱帯ジャングルの中をあてどなくさ迷い続けます。絶望的な状況の中で、かつて棄てた神へ信仰が再び芽生えはじめる田村。しかし、絶対的な孤独、発作的な殺人、人肉食への欲望、そして同胞を狩って生き延びようとする戦友たちという現実は、過酷な運命へと田村を追い込んでいくのです。
この小説は単に戦場の過酷な状況を描いているだけではありません。絶望的な状況に置かれながらも、その状況を見極めようとする「醒めた目」で冷徹に描かれた状況からは、「エゴイズム」「自由」「殺人」「人肉食」といった実存的なテーマが浮かび上がってきます。また、極限に追い込まれた主人公の体験から、人間にとって「宗教とは何か」「倫理とは何か」「戦争とは何か」といった根源的な問いが照らし出されていきます。島田雅彦さんは、その意味でこの小説は、ダンテ「神曲」における「地獄めぐり」とも比すべき深みをもっているといいます。
番組では、作家・島田雅彦さんを講師に迎え、「野火」を現代の視点から読み解きます。そして、終戦記念日を迎える8月、あらためて「人間にとって戦争とは何か」という普遍的な問題を深く考えていくきっかけとしたい。
第1回 落伍者の自由
日本軍の劣勢が確実になる中、肺病のために部隊を追われ、野戦病院からも食糧不足のために入院を拒否される田村一等兵。米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、田村は熱帯ジャングルの中をあてどなくさ迷い続ける。絶望的な状況の中、田村は「一種陰性の幸福感が身内に溢れる」のを感じ、いつしか「自身の孤独と絶望を見極めようという暗い好奇心」に駆られていく。敵兵にすら孤独への慰撫を求めてしまう異常な心理状態、逃げ惑う同胞にすら滑稽さを感じて哄笑を抑えられない不条理……徹底して「醒めた目」で冷徹なまでに克明に描かれる大岡の筆致から、いかなるイデオロギーをも交えない、純粋で絶対的な戦場の姿が浮かび上がってくる。第1回では、大岡昇平の人となり、「野火」の執筆背景などにも言及しながら、戦場を巡る一人の男の彷徨の意味を読み解いていく。
第2回 兵士たちの戦場経済
極限状況に追い込まれた人々は、日常とは全く異なった原理に突き動かされていく。絶対的な孤独の中で結ばれていく擬似家族の絆、「塩」や「煙草」といった稀少物資が人と人を結びつける奇妙な戦場経済、「心の空虚」に忍び込んでくる宗教的な象徴、絶望的の果てに行われる発作的な殺人…等々。必死に「人間性」に踏みとどまろうとしながらも、転がり落ちるように動物化していく人間たちの姿が赤裸々に描かれるのが「野火」という小説なのだ。第2回は、極限状況下で展開される人間の経済行為や衝動的行為の意味を読み解きながら、人間の中の「悪」と「卑小」を見極めていく。
第3回 人間を最後に支えるもの
極限的な飢餓状態の中で、田村一等兵は奇妙な光景に出会う。路傍に打ち捨てられた兵士たちの死体がことごとく臀部に肉を失っているのだ。最初は疑問に思った田村だが、その肉を食べたいという自分自身の欲望に気づき、それが同胞による人肉食によるものだと見抜く。その後、死を目前にした将校から、死後に自分の腕を食べてよいという遺言を聞き、心が揺れ動く田村。その肉を切り裂こうとした右手を左手が力強く制止した。やがて、田村は大自然の中に「神」の姿を見る。それは狂気の中の「幻想」だったのか? それとも人間の奥底に眠る「良心」だったのか? そして、彼に最後まで人肉食を思いとどまらせたものとは何だったのか? 第3回は、田村の戦場での最後の行為から、人間にとって「倫理とは何か」「宗教とは何か」といった根源的なテーマを考えていく。
第4回 異端者が見た神
極限の中で同士討ちという凄惨な現場を体験した田村。帰国後、彼は狂人とみなされ、精神病院に収容される。しかし、果たして狂気に陥っているのは田村なのか? これほどまでに過酷だった戦場へ再び人々を送り出そうとしている現実こそ狂気ではないのか? 田村は静かに戦争を告発しているかのようにみえる。大岡昇平の問いかけは、現代の私たちを揺さぶり続ける。二度に渡って映画化もされ、国際的にも大きなインパクトを与え続けてきた「野火」。その影響は今も脈々と伝わっているのだ。第4回は、映画監督の塚本晋也さんをゲストに招き、映画化の経緯や自分自身の解釈も交えて読み解いてもらうことで、「野火」という作品が与えた後世への影響や現代の私たちがこの作品から何を受け取るべきかを考えていく。
<ゲストコラム>
『野火』 ゲスト講師 島田雅彦
「反戦小説」にとどまらない『野火』
小説は、それが事実であろうとなかろうと、書いてしまうことのできるジャンルです。しかし、事実でないものを事実だということはできません。限りなく事実に接近できる立場にいながら、事実から目を背ける態度は自ら厳しく慎むべきなのです。小説家・大岡昇平は戦争や歴史を美談にすることを拒否した作家です。小説というジャンルや歴史記述の方法に対し、誠実を尽くしたことによって、日本近代文学史上、最も影響力のある作家となったといっても異論はないでしょう。
私個人にとっても重要かつ特別な作家で、尊敬を込めて「大岡先生」とお呼びしたいのです。私は一九八三年、大学在学中に『優しいサヨクのための嬉遊曲』という作品で作家デビューしたものの、当時の選考委員諸氏との相性が悪く、不名誉にも芥川賞の落選回数記録を樹立してしまいました。私の祖父と同い年の大岡先生は、その好奇心の強さから、孫の世代の私の初期作品にも目を通し、常にフェアなコメントをしてくださいました。当時、岩波書店の「世界」誌上で埴谷雄高氏と「二つの同時代史」という連続対談を続けておられましたが、そこでも言及してくださいました。『大岡昇平全集』(筑摩書房)の別巻や岩波現代文庫で読むことができます。
私は『野火』をはじめとする大岡作品に高校時代から親しんでいましたが、文学史上の偉大な先達と見做していましたから、その人物に認められたことの光栄と、生前のご夫妻にお会いして直接言葉を交わした幸運を今でも人生最良の恩恵と受け止めています。後輩には公平で優しい方でしたが、文学や世相に対する批評は辛辣で、中途半端なことを書いたら許さないという睨みも利かせていました。
今回、「100分de名著」で取り上げる『野火』は、作家大岡昇平の看板的作品です。戦後文学、戦争文学の金字塔であることには疑いがありませんが、戦後文学という限定をつけず、明治以降の日本近代文学史を通じて、ベスト3にランクインする作品でしょう。「日本映画史における最高傑作は?」といったアンケートで必ず挙がるのは、小津安二郎の『東京物語』や黒澤明の『七人の侍』ですが、それと同様に『野火』は近代文学の最重要作といえます。
『野火』は何処かダンテの『神曲』「地獄篇」を彷彿させる地獄巡りの話で、基本、語り手の「私」こと田村一等兵のモノローグによって構成されています。レイテ島の熱帯雨林を彷徨い、飢餓に喘ぐ部隊、傷病者が放置される野戦病院、道端に累々と横たわる遺体など戦争末期の悲惨な現実を見つめながら、「私」は自意識を反芻しています。その語り口は冷徹で、詩的かつ思弁的です。戦争末期に日本軍兵士たちが経験した極限状況の報告、とりわけ生存を懸けた狡知の応酬、死に限りなく接近すること、緩やかに死んでゆくことについての実存的考察は、人間の本能や欲動を見据えた戦後文学の最も大きな成果といえるでしょう。
『野火』は同時期に書かれた『俘虜記』や、大岡自身の体験に根ざした諸短篇とは質的な違いがあります。大岡昇平をはじめとする戦後派の作家は、戦前に翼賛体制が成立したときにはすでに成人しており、それ以降の世代とは異なり、とても知的緊張の度合いが高い人々です。彼らは、キリスト教やマルクス主義のような西洋外来思想と真摯に正面から向き合う青年時代を過ごしたのちに不本意ながら戦争を体験した。狭隘な日本文学のコンテクスト(文脈)を外れて、世界文学のコンテクストの中で自分に何ができるのか、戦争による大量死の後に文学にできることはあるのかを真剣に考えた世代です。
大岡先生や埴谷先生とお会いしたとき、私が普通に世間話をしたいと思っても、ふた言目にはカント、マルクスの名前が出てきたことを思い出します。彼らにとって、文学は全世界と交信するためのメディアでした。大岡昇平は戦後、敗戦国民としての惨めな思いや敗残兵としての筆舌に尽くしがたい経験を携えて、日本に帰還したとき、「戦争には負けたけれど文学で勝つのだ」との思いを抱くのです。自分がどれだけ特異な体験をし、そこで何を考えたのかを世界に問いたい。そうした意図を『野火』から感じ取ることができます。
大岡昇平は戦前、フランス文学の研究者でした。スタンダールを愛するスタンダリアンだった。当時の年齢感覚として、青年期を過ぎ、人生をすでに折り返した三十五歳のとき、召集されて、連敗中の日本にとって最終防衛ラインと位置づけられたフィリピン戦線に送られました。大岡が乗っていた船の後ろを航行していた輸送船は潜水艦に撃沈されています。すでに制海権、制空権を米軍に握られている中では敗戦必至の戦場でした。彼が所属していたサンホセ警備隊の六十余人のうち生き残った兵士はわずか二人(ほかに下士官三人)で、彼はその一人だったのです。どこの国の兵士であれ戦争では辛い思いをしますが、たとえば、レイテ島での死亡率が九十七パーセント、すなわち生存率がわずか三パーセントという悲惨な状況は類を見ないでしょう。勝利し、生還することが前提の米兵に対し、日本兵は玉砕するために戦地に赴いているのです。
復員した兵士でのちに戦争文学を書いた人は多く、野間宏『真空地帯』、大西巨人『神聖喜劇』、古山高麗雄『プレオー8(ユイット)の夜明け』など、いくつも名を挙げられます。しかし『野火』は、それらの作品ともかなり趣が異なります。主人公の田村一等兵を通じて描かれる戦争の悲惨さは、シンプルに反戦小説と見做されることをどこかで拒んでいる強さがあるのです。
『野火』は異なるテーマが複層的に打ち出された作品で、多面的な読み方が可能です。これは戦争小説ではなく、一種の「信仰告白」あるいは「意識の流れ」として読む方法もあります。大岡昇平はスタンダールだけではなく、西欧文学の広範な素養を持った作家でした。彼はその知識を駆使して、ダンテやゲーテまで取り込むような世界文学の枠組みの中で『野火』を書いたのです。その奥深さを、これから探ってみたいと思います。
<プロデューサーAのこぼれ話>
ぼろぼろの「野火」にこもった思い
ちなみに、これは私が愛蔵している「野火」です。もはや何回読み返したわからないほどで、お風呂の中でも読み、旅先でも読みと、いろいろなところに持ち歩き読みまくった結果、こんな姿になってしまいました。今回の講師、島田雅彦さんの研究室に、取材でお邪魔した際も「えらく、ぼろぼろだねえ」と驚かれたのを思い出します。
●
「野火」はプロデューサーに就任してから、取り上げてみたいと思っていた一冊でした。しかし、取り上げるにはあまりにも重すぎるのでは、と躊躇もしていました。そんな日々の中、かばんの奥の片隅に眠ったままの「野火」を再び読み返すきっかけになったのは、去年8月、哲学者カントの平和論「永遠平和のために」を番組で取り上げたことでした。
●
カントがあれだけの平和論を書くことができたのは、「オーストリア継承戦争」「七年戦争」「バイエルン継承戦争」など当時のヨーロッパ各地で戦乱が絶えなかったこと。カントは、戦争を肌身で感じていたからこそ、戦争をなんとか防ぐことができないかと切実に考えて、徹底した思索を試みたのです。
●
一方、私たちはどうでしょう。もちろん今でも世界各地で紛争は絶えませんが、戦後70年以上たって、私たち日本人はすっかり戦争の記憶を薄れさせてしまったのではないでしょうか? どんな立場にたって議論するにしても、戦争自体が一体いかなるものかを、今もう一度見つめなおす必要があるのではないか。そう考えて、「野火」をもう一度、読み直したのです。これまで、それほど印象に残っていなかった次の一節が胸を貫きました。
●
「この田舎にも毎夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る小数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」
「野火」 三十七「狂人日記」の章より
●
「戦争を知らない人間は、半分は子供である」。本物の戦場を生身で体験した大岡昇平さんだからこそ書けた一節だと思います。そこには、生半可な気持ちや机上の空論で戦争を論じるような態度など消し飛んでしまうような凄みがあります。どんな政治的な立場にたつものであれ、大岡さんが描いたような、「絶対的な戦争の真実」「戦争のリアル」をまず厳しく見つめぬくことから始めなければならない。そして、戦争の記憶をもつ人々が年々少なくなっていく中、文学として残された「野火」には、とてつもない価値があると思います。
●
このような思いに駆られた私は、ぼろぼろになった「野火」の一文一文を再び噛みしめながら、思い浮かべた講師候補の一人、島田雅彦さんにメールをさせていただきました。メールの日付が2016年9月1日とありますから、ちょうど一年前のことになります。その後、「宮沢賢治スペシャル」の朗読を担当していただいた塚本晋也さんの真摯な読みに感銘を受け、映画化を成し遂げた彼にもぜひゲストに出てもらいたいと思いました。お二人からのメールのお返事はとてもとても熱いもので、番組に取り組む決意を改めて強く固めることができました。その「熱」は、今回のシリーズの第四回に、強く、強く現れていると今、実感しています。
●
さて、「野火」の主人公・田村は、復員後、狂人とみなされ、精神病院に収容されます。この意味に、番組制作終了後、深く思いをいたしました。果たして狂気に陥っているのは田村なのでしょうか? これほどまでに過酷だった戦場へ再び人々を送り出そうとしている現実こそ狂気の沙汰ではないのか。演出を担当したディレクターがエピローグとしていれてくれた、この最後の朗読を何度も見直すたびに、そんな思いがふつふつとわいてきます。「野火」の問いかけ、大岡さんの問いかけは、今も、止むことはないのです。
昔から気になっていた小説ですが、読まずに今に至っていましたが、それを知るよい機会となりました。
「戦争の狂気」とはよく使われる言葉ですが、なぜ人間は戦争を起こし殺し合うのでしょう。
きっかけは上層部の人間の思惑かもしれません。
それにコントロールされた民衆、扇動するメディアが肯定論を展開し、後戻りできない状況を作り上げます。
しかし、戦争の現場で殺し合うのは兵士の個人個人です。
番組の中で、社会生活の中では善良な市民が、どのタイミングで殺人者になるのかという塚本監督のコメントを興味深く聞きました。
捕虜に銃剣をさして殺すよう、上官から命令されます。
はじめは「とてもそんなことはできない」と拒否する兵士。
しかし「刺さなければお前を殺す」と脅されます。
その極限状況で、人間の闘争本能に蓋をしていた大脳の抑制が外れます。
ある兵士は捕虜を刺して殺したとき、罪悪感とともに充実感を感じたそうです。
人間が獣に成り下がった瞬間です。
こうして人間は殺し合ったのです。
日本人の皆さん、また同じ事を繰り返しますか?
戦争をやりますか?
<番組内容>
大岡昇平の代表作「野火」は、太平洋戦争末期、絶望的な状況に置かれた一兵士が直面した戦争の現実と、孤独の中で揺れ動く心理を克明に描きだした作品です。戦後文学の最高傑作とも称される「野火」は、数多くの作家や研究者が今も言及し続け、二度にわたる映画化を果たすなど、現代の私たちにも「戦争とは何か」を問い続けています。世界各地で頻発するテロ、終わりのない地域紛争、緊迫する国際関係……現代という時代にも、「戦争」は暗い影を落とし続けています。作家の島田雅彦さんは、戦後70年以上を経て、実際に戦争を体験した世代が少なくなっている今こそ、この作品を通して、「戦争のリアル」を追体験しなければならないといいます。
舞台は太平洋戦争末期のフィリピン・レイテ島。日本軍の劣勢が確実になる中、主人公・田村一等兵は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からも食糧不足のために入院を拒否されます。米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、田村は熱帯ジャングルの中をあてどなくさ迷い続けます。絶望的な状況の中で、かつて棄てた神へ信仰が再び芽生えはじめる田村。しかし、絶対的な孤独、発作的な殺人、人肉食への欲望、そして同胞を狩って生き延びようとする戦友たちという現実は、過酷な運命へと田村を追い込んでいくのです。
この小説は単に戦場の過酷な状況を描いているだけではありません。絶望的な状況に置かれながらも、その状況を見極めようとする「醒めた目」で冷徹に描かれた状況からは、「エゴイズム」「自由」「殺人」「人肉食」といった実存的なテーマが浮かび上がってきます。また、極限に追い込まれた主人公の体験から、人間にとって「宗教とは何か」「倫理とは何か」「戦争とは何か」といった根源的な問いが照らし出されていきます。島田雅彦さんは、その意味でこの小説は、ダンテ「神曲」における「地獄めぐり」とも比すべき深みをもっているといいます。
番組では、作家・島田雅彦さんを講師に迎え、「野火」を現代の視点から読み解きます。そして、終戦記念日を迎える8月、あらためて「人間にとって戦争とは何か」という普遍的な問題を深く考えていくきっかけとしたい。
第1回 落伍者の自由
日本軍の劣勢が確実になる中、肺病のために部隊を追われ、野戦病院からも食糧不足のために入院を拒否される田村一等兵。米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、田村は熱帯ジャングルの中をあてどなくさ迷い続ける。絶望的な状況の中、田村は「一種陰性の幸福感が身内に溢れる」のを感じ、いつしか「自身の孤独と絶望を見極めようという暗い好奇心」に駆られていく。敵兵にすら孤独への慰撫を求めてしまう異常な心理状態、逃げ惑う同胞にすら滑稽さを感じて哄笑を抑えられない不条理……徹底して「醒めた目」で冷徹なまでに克明に描かれる大岡の筆致から、いかなるイデオロギーをも交えない、純粋で絶対的な戦場の姿が浮かび上がってくる。第1回では、大岡昇平の人となり、「野火」の執筆背景などにも言及しながら、戦場を巡る一人の男の彷徨の意味を読み解いていく。
第2回 兵士たちの戦場経済
極限状況に追い込まれた人々は、日常とは全く異なった原理に突き動かされていく。絶対的な孤独の中で結ばれていく擬似家族の絆、「塩」や「煙草」といった稀少物資が人と人を結びつける奇妙な戦場経済、「心の空虚」に忍び込んでくる宗教的な象徴、絶望的の果てに行われる発作的な殺人…等々。必死に「人間性」に踏みとどまろうとしながらも、転がり落ちるように動物化していく人間たちの姿が赤裸々に描かれるのが「野火」という小説なのだ。第2回は、極限状況下で展開される人間の経済行為や衝動的行為の意味を読み解きながら、人間の中の「悪」と「卑小」を見極めていく。
第3回 人間を最後に支えるもの
極限的な飢餓状態の中で、田村一等兵は奇妙な光景に出会う。路傍に打ち捨てられた兵士たちの死体がことごとく臀部に肉を失っているのだ。最初は疑問に思った田村だが、その肉を食べたいという自分自身の欲望に気づき、それが同胞による人肉食によるものだと見抜く。その後、死を目前にした将校から、死後に自分の腕を食べてよいという遺言を聞き、心が揺れ動く田村。その肉を切り裂こうとした右手を左手が力強く制止した。やがて、田村は大自然の中に「神」の姿を見る。それは狂気の中の「幻想」だったのか? それとも人間の奥底に眠る「良心」だったのか? そして、彼に最後まで人肉食を思いとどまらせたものとは何だったのか? 第3回は、田村の戦場での最後の行為から、人間にとって「倫理とは何か」「宗教とは何か」といった根源的なテーマを考えていく。
第4回 異端者が見た神
極限の中で同士討ちという凄惨な現場を体験した田村。帰国後、彼は狂人とみなされ、精神病院に収容される。しかし、果たして狂気に陥っているのは田村なのか? これほどまでに過酷だった戦場へ再び人々を送り出そうとしている現実こそ狂気ではないのか? 田村は静かに戦争を告発しているかのようにみえる。大岡昇平の問いかけは、現代の私たちを揺さぶり続ける。二度に渡って映画化もされ、国際的にも大きなインパクトを与え続けてきた「野火」。その影響は今も脈々と伝わっているのだ。第4回は、映画監督の塚本晋也さんをゲストに招き、映画化の経緯や自分自身の解釈も交えて読み解いてもらうことで、「野火」という作品が与えた後世への影響や現代の私たちがこの作品から何を受け取るべきかを考えていく。
<ゲストコラム>
『野火』 ゲスト講師 島田雅彦
「反戦小説」にとどまらない『野火』
小説は、それが事実であろうとなかろうと、書いてしまうことのできるジャンルです。しかし、事実でないものを事実だということはできません。限りなく事実に接近できる立場にいながら、事実から目を背ける態度は自ら厳しく慎むべきなのです。小説家・大岡昇平は戦争や歴史を美談にすることを拒否した作家です。小説というジャンルや歴史記述の方法に対し、誠実を尽くしたことによって、日本近代文学史上、最も影響力のある作家となったといっても異論はないでしょう。
私個人にとっても重要かつ特別な作家で、尊敬を込めて「大岡先生」とお呼びしたいのです。私は一九八三年、大学在学中に『優しいサヨクのための嬉遊曲』という作品で作家デビューしたものの、当時の選考委員諸氏との相性が悪く、不名誉にも芥川賞の落選回数記録を樹立してしまいました。私の祖父と同い年の大岡先生は、その好奇心の強さから、孫の世代の私の初期作品にも目を通し、常にフェアなコメントをしてくださいました。当時、岩波書店の「世界」誌上で埴谷雄高氏と「二つの同時代史」という連続対談を続けておられましたが、そこでも言及してくださいました。『大岡昇平全集』(筑摩書房)の別巻や岩波現代文庫で読むことができます。
私は『野火』をはじめとする大岡作品に高校時代から親しんでいましたが、文学史上の偉大な先達と見做していましたから、その人物に認められたことの光栄と、生前のご夫妻にお会いして直接言葉を交わした幸運を今でも人生最良の恩恵と受け止めています。後輩には公平で優しい方でしたが、文学や世相に対する批評は辛辣で、中途半端なことを書いたら許さないという睨みも利かせていました。
今回、「100分de名著」で取り上げる『野火』は、作家大岡昇平の看板的作品です。戦後文学、戦争文学の金字塔であることには疑いがありませんが、戦後文学という限定をつけず、明治以降の日本近代文学史を通じて、ベスト3にランクインする作品でしょう。「日本映画史における最高傑作は?」といったアンケートで必ず挙がるのは、小津安二郎の『東京物語』や黒澤明の『七人の侍』ですが、それと同様に『野火』は近代文学の最重要作といえます。
『野火』は何処かダンテの『神曲』「地獄篇」を彷彿させる地獄巡りの話で、基本、語り手の「私」こと田村一等兵のモノローグによって構成されています。レイテ島の熱帯雨林を彷徨い、飢餓に喘ぐ部隊、傷病者が放置される野戦病院、道端に累々と横たわる遺体など戦争末期の悲惨な現実を見つめながら、「私」は自意識を反芻しています。その語り口は冷徹で、詩的かつ思弁的です。戦争末期に日本軍兵士たちが経験した極限状況の報告、とりわけ生存を懸けた狡知の応酬、死に限りなく接近すること、緩やかに死んでゆくことについての実存的考察は、人間の本能や欲動を見据えた戦後文学の最も大きな成果といえるでしょう。
『野火』は同時期に書かれた『俘虜記』や、大岡自身の体験に根ざした諸短篇とは質的な違いがあります。大岡昇平をはじめとする戦後派の作家は、戦前に翼賛体制が成立したときにはすでに成人しており、それ以降の世代とは異なり、とても知的緊張の度合いが高い人々です。彼らは、キリスト教やマルクス主義のような西洋外来思想と真摯に正面から向き合う青年時代を過ごしたのちに不本意ながら戦争を体験した。狭隘な日本文学のコンテクスト(文脈)を外れて、世界文学のコンテクストの中で自分に何ができるのか、戦争による大量死の後に文学にできることはあるのかを真剣に考えた世代です。
大岡先生や埴谷先生とお会いしたとき、私が普通に世間話をしたいと思っても、ふた言目にはカント、マルクスの名前が出てきたことを思い出します。彼らにとって、文学は全世界と交信するためのメディアでした。大岡昇平は戦後、敗戦国民としての惨めな思いや敗残兵としての筆舌に尽くしがたい経験を携えて、日本に帰還したとき、「戦争には負けたけれど文学で勝つのだ」との思いを抱くのです。自分がどれだけ特異な体験をし、そこで何を考えたのかを世界に問いたい。そうした意図を『野火』から感じ取ることができます。
大岡昇平は戦前、フランス文学の研究者でした。スタンダールを愛するスタンダリアンだった。当時の年齢感覚として、青年期を過ぎ、人生をすでに折り返した三十五歳のとき、召集されて、連敗中の日本にとって最終防衛ラインと位置づけられたフィリピン戦線に送られました。大岡が乗っていた船の後ろを航行していた輸送船は潜水艦に撃沈されています。すでに制海権、制空権を米軍に握られている中では敗戦必至の戦場でした。彼が所属していたサンホセ警備隊の六十余人のうち生き残った兵士はわずか二人(ほかに下士官三人)で、彼はその一人だったのです。どこの国の兵士であれ戦争では辛い思いをしますが、たとえば、レイテ島での死亡率が九十七パーセント、すなわち生存率がわずか三パーセントという悲惨な状況は類を見ないでしょう。勝利し、生還することが前提の米兵に対し、日本兵は玉砕するために戦地に赴いているのです。
復員した兵士でのちに戦争文学を書いた人は多く、野間宏『真空地帯』、大西巨人『神聖喜劇』、古山高麗雄『プレオー8(ユイット)の夜明け』など、いくつも名を挙げられます。しかし『野火』は、それらの作品ともかなり趣が異なります。主人公の田村一等兵を通じて描かれる戦争の悲惨さは、シンプルに反戦小説と見做されることをどこかで拒んでいる強さがあるのです。
『野火』は異なるテーマが複層的に打ち出された作品で、多面的な読み方が可能です。これは戦争小説ではなく、一種の「信仰告白」あるいは「意識の流れ」として読む方法もあります。大岡昇平はスタンダールだけではなく、西欧文学の広範な素養を持った作家でした。彼はその知識を駆使して、ダンテやゲーテまで取り込むような世界文学の枠組みの中で『野火』を書いたのです。その奥深さを、これから探ってみたいと思います。
<プロデューサーAのこぼれ話>
ぼろぼろの「野火」にこもった思い
ちなみに、これは私が愛蔵している「野火」です。もはや何回読み返したわからないほどで、お風呂の中でも読み、旅先でも読みと、いろいろなところに持ち歩き読みまくった結果、こんな姿になってしまいました。今回の講師、島田雅彦さんの研究室に、取材でお邪魔した際も「えらく、ぼろぼろだねえ」と驚かれたのを思い出します。
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「野火」はプロデューサーに就任してから、取り上げてみたいと思っていた一冊でした。しかし、取り上げるにはあまりにも重すぎるのでは、と躊躇もしていました。そんな日々の中、かばんの奥の片隅に眠ったままの「野火」を再び読み返すきっかけになったのは、去年8月、哲学者カントの平和論「永遠平和のために」を番組で取り上げたことでした。
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カントがあれだけの平和論を書くことができたのは、「オーストリア継承戦争」「七年戦争」「バイエルン継承戦争」など当時のヨーロッパ各地で戦乱が絶えなかったこと。カントは、戦争を肌身で感じていたからこそ、戦争をなんとか防ぐことができないかと切実に考えて、徹底した思索を試みたのです。
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一方、私たちはどうでしょう。もちろん今でも世界各地で紛争は絶えませんが、戦後70年以上たって、私たち日本人はすっかり戦争の記憶を薄れさせてしまったのではないでしょうか? どんな立場にたって議論するにしても、戦争自体が一体いかなるものかを、今もう一度見つめなおす必要があるのではないか。そう考えて、「野火」をもう一度、読み直したのです。これまで、それほど印象に残っていなかった次の一節が胸を貫きました。
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「この田舎にも毎夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る小数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」
「野火」 三十七「狂人日記」の章より
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「戦争を知らない人間は、半分は子供である」。本物の戦場を生身で体験した大岡昇平さんだからこそ書けた一節だと思います。そこには、生半可な気持ちや机上の空論で戦争を論じるような態度など消し飛んでしまうような凄みがあります。どんな政治的な立場にたつものであれ、大岡さんが描いたような、「絶対的な戦争の真実」「戦争のリアル」をまず厳しく見つめぬくことから始めなければならない。そして、戦争の記憶をもつ人々が年々少なくなっていく中、文学として残された「野火」には、とてつもない価値があると思います。
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このような思いに駆られた私は、ぼろぼろになった「野火」の一文一文を再び噛みしめながら、思い浮かべた講師候補の一人、島田雅彦さんにメールをさせていただきました。メールの日付が2016年9月1日とありますから、ちょうど一年前のことになります。その後、「宮沢賢治スペシャル」の朗読を担当していただいた塚本晋也さんの真摯な読みに感銘を受け、映画化を成し遂げた彼にもぜひゲストに出てもらいたいと思いました。お二人からのメールのお返事はとてもとても熱いもので、番組に取り組む決意を改めて強く固めることができました。その「熱」は、今回のシリーズの第四回に、強く、強く現れていると今、実感しています。
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さて、「野火」の主人公・田村は、復員後、狂人とみなされ、精神病院に収容されます。この意味に、番組制作終了後、深く思いをいたしました。果たして狂気に陥っているのは田村なのでしょうか? これほどまでに過酷だった戦場へ再び人々を送り出そうとしている現実こそ狂気の沙汰ではないのか。演出を担当したディレクターがエピローグとしていれてくれた、この最後の朗読を何度も見直すたびに、そんな思いがふつふつとわいてきます。「野火」の問いかけ、大岡さんの問いかけは、今も、止むことはないのです。